龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

謙虚さを保つことの困難について

くどいようだが、どうも世間一般の大衆は情報の読み取り能力が不足している人が多いというのか、これでは政治の嘘などにいいように騙されてしまっても仕方ないとも思えるのだが、改めて有らぬ万引きの疑いを掛けて生徒を自殺に追いやった広島県府中町立中の問題について指摘させていただきたい。
先ず、基本的に万引きと言うものは、特に中学生の万引きならば、いろいろな状況が考えられるが、発覚するか、発覚しないかが全てなのである。発覚するということは店の人間が、万引きした生徒を捕まえて厳しく叱責すると同時に学校と保護者にも連絡を入れるということである。当然、連絡が入った学校と保護者は、生徒本人からも直後に事情聴取して事実確認がなされることとなる。親が知らなかったということはあり得ない。もう一つのケースは、店の人間が生徒の将来を考慮して温情により、店内で本人を叱責はするが、親や学校には報告をしないということである。それが発覚しないパターンである。もし店の人間が約束を破って、後に万引きの事実を学校に報告したとすると、その直後に生徒は教師から呼び出され事実確認がなされるはずであるから、その時点で発覚するはずであって、1~2年も経過した高校受験の進路指導の場で、降って湧いたように過去の非行事実が本人に告げられることは状況的にあり得ない。自殺した生徒は学校の成績も優秀であったということなので、その程度のことは理解できるはずである。つまり自殺した少年の立場を慮ると、発覚していない過去の万引きの事実を担任教師が密かに知っていて、志望校への推薦を拒否され、そのことを親にも相談できずに精神的に行き詰ってしまうという状況は考え難いことなのである。
翻って、今、体調が悪いからと逃げている担任教師は、自殺した生徒に万引きした事実があるとは言っていない。担任教師が言っていることは、その生徒が万引きを明確に否定しなかったので、それが真実だと思い込んでしまったのだと、つまり自分が勘違いしてしまう状況はあったのだと言い訳をしているということだ。そこから当初の報道は、その生徒が実際に万引きをした事実の可能性があったかのようなニュアンスのものとなっていて、今は修正はされてはきているが、まだその気配が若干は残っている。なぜならその担任教師の発言にそれなりの重みが置かれているからだ。しかしである。皆さんにもよく考えていただきたいのであるが、その教師は本当に誠実に、一切のごまかしや取り繕いを排除して、正確に自殺した生徒とのやりとりを再現し、説明しているのであろうか。私には到底、そうは思えないのであるが。生徒の話しを聞こうともせずに、明確に否定させない状況に追い込んでしまったのではないのか。それが少年の自殺の真の原因ではないのか。そのように考えた方が自然だと私には思えるのであるが。
さてここから先は、多少、私の独断と偏見を含んだ見方であることを断ると共にお許しいただきたい。広島県の人々は先の戦争で原爆投下という人類史上、初めての悲惨な体験をしている土地であって、それゆえに国家や政治に対して、他の地域を先導して意見する権利と使命を有していることは否定し得ない。平和思想、平和教育は大いに結構だと思う。シニカルに言っているのではなくて、そのような運動も一方になければ、国家としての健全なバランスは保ち得ないと考えられる。しかし厳しい言い方ではあるが、そのような特権によって広島県の教員や教職員組合は、何も「相対」的にも「絶対」的にも偉くなる訳ではないのだ。国家権力に対置し得る政治的地位が、地域として付与されているものでもない。やはりそこには教育に携わる者としての謙虚さがなければならないと思われるのである。そしてその謙虚さが失われた時に、このように絶対にあってはならない事態が、その地域のある種の地域性として必然的に発生するのではないのか。これは私自身の表現についても自戒を込めて述べていることである。ブログの記事として、一見、表面的に尤もらしくもあり立派に見える記述をしたからと言って、それで私の人間としての価値や重みが1ミリも1グラムも増す訳ではないのだ。そんなことは誰でも出来ることなのである。偉くも何ともない。誰でも言い得ることを敢えて私は言っているだけであって、そこに絶対的な虚しさを自己認識しているからこそ、まだ私は何事かを述べることを天から許されているような感覚はある。言論の自由と言ったところで、謙虚さを喪失してしまえば、質的には公衆便所の落書きになってしまうものである。偉そうではあるが、そうならないようにするための心の点検と努力が絶えず必要とされているのだと思う。朝日新聞などもそうだが、一時は入試問題などにも記事が盛んに使われて、日本の権威と民主主義の象徴の如き地位に君臨していたものだが、それが今や粗悪な鼻紙のようにまで落ちぶれてしまっている。それでも私は未だに取っているが。やはりそこには自分たちは立派なことを主張しているのだという驕りと謙虚さの喪失が、長年の間に蓄積されてきた結果なのだと私には思えてならない。恐らくは心が全てなのだ。我々の心が、この現実世界を複雑な因果応報の果てに、一つの現実として作り出しているのである。