言う、言わいでか。
前回書いた教育メソッドの問題は、教師の生徒に対する暴力を認めるか否かという討論番組に対して私が
感じる違和感と似ていることがおわかりいただけるであろうか。
2たす8はなんぼやと聞く教育は、教師の生徒に対する暴力を認める法案(規則)に賛成しますか、反対
しますかと問いかけるのと同じ性質を持っている。わかりやすく言えば10という答えを教師の生徒に対
する暴力を認める権利であるとする。2がそのような法案(規則)を検討しなければならない具体的状況
(たとえば生徒が教師に暴力を振るう、あるいは授業の進行を妨げる行為をするなど)であると仮定す
る。そして8は教師が生徒に暴力を振るう大義名分(教室の秩序を維持するなど)であるとする。そうす
ればこの数式は2と8を足したときに10であることをあなたは認めますかと問いかけているのだ。その
問いかけが間違っているというつもりはない。しかし問いかけが間違っている訳でなくとも、その問いか
けが最善であるかどうかは別の問題だ。我々はどの問いかけが最善であるかどうかを絶えず問いかけなけ
ればならない。どうして10を求めなければならないのか、それが5や20であってはいけないのかとい
うことを先ず第一に考えるべきである。また2の状況を1や3に変えることはできないのか、8の大義名
分を本当に8として認めていいのかどうかも検証が必要である。そんなことを言っていれば収拾がつかな
くなるではないかと言われるかもしれないが、私が問題にしているのは本来最も重要であるはずの思考プ
ロセスが、2たす8はなんぼやと聞かれた瞬間に立ち消えてしまうことであってなにも多数決による決定
システムを否定している訳ではない。賛成か反対か、2者択一の選択をした時点で自らの判断で世界参加
したような錯覚をなし、どんどん誘導され世論が形成されていくような日本の民主主義のレベルを問題に
しているのである。
誤解のないように言っておくが私はTVの企画に文句をつけているのではない。TVは一定時間枠の制約
の中でより多くの人に見てもらうことに使命があり、基本的に一方通行であって視聴者に対して2たす8
はなんぼやと聞くような構成にしか成りようがない。しかし今日的な日本社会における問題のほとんど
は、戦後の思考放棄した日本人の生き様によるものであり、それは今後とも永遠に変わらないのではない
かという絶望を私はどうしてもTVの中に見てしまう。はっきり言って人口比にすれば0.001%程度の人
間にのみ考えさせていてはいけない。彼らは基本的には利権で動き、我々を誘導、操作することしか考え
ていないからだ。2項の意識対立は最も操作しやすい社会意識なのであると思われる。そしてそれは何よ
りマーケットであるのだ。イデオロギーの対立は実は資本の論理で保持されておりこれが何よりも厄介な
問題であると思われる。
我々は問われた時に、こう問い返さなければならない。
なぜ、そのような設問なのですかと。
次回に続く。
いつもいつも続くのだ。そして私は言う。
暗殺されない程度に言うぞ、言わいでか。
そうか、左様か。然らば言わん。
君のためにも、私のためにも
さようなら、と。