龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

小さな国の大きな格差について

政治家にコネでもなければ入れないであろうが、南青山に児童相談所が出来たならばそこで働く人間にとってはとてもいい職場になると思われる。最新の設備を整えた清潔で広い館内の中で、何をするのかはわからないがおそらくは相談者はほとんどいないのではなかろうか。1年間に数例あるかどうかというレベルであってもおかしくはないであろう。よって働く職員は何もすることはなくとも、きちんとした正規の給料やボーナスや休暇がもらえるのである。まるでこの世の天国のようなところである。しかしその内に運営実態がほとんどないことが、さすがに近隣の住民に知れ渡ることになると思われるので、その立派な施設を存続させ続け職員の雇用を守るためには、児相が有名私立中学進学のための学習相談の場になったり、優秀な家庭教師を希望者の親に斡旋したり、或いは子供たちの自習室として開放されることになるのかも知れない。それもまた地域社会に開かれた利用のされ方なのであろうが、そのような、いやそうなる可能性の高い施設に100億円もの金を費やすことが、果たして正しい税金の使われ方と言えるのであろうか。差別とか偏見の問題ではなくて、この小さな国の日本においても地域性とか地域格差というものは、厳然として存在するものである。私の息子は現在、高校3年生で受験を控えていて大変な時期であるが、息子が中学生の時のことである。息子が通っていた中学校は公立であったが、大阪市の中でも上から何番かはわからないが、成績が優秀な中学校であった。ある日、私が保護者として初めてその中学校に懇談会か何かで行った時であるが、校内ですれ違う生徒、皆が30度ぐらいの角度で前かがみに頭を下げて、大きな声で「おはようございます。」とか「こんにちわ」などと大きな声で挨拶してきてくれるので、大変驚いてしまった。何とよく躾が行き届いていることかと自分の息子が通っている学校でありながら感心してしまったのである。自慢ではないが、私自身が中学生であった時や高校生の時を通しても、そんなことをしたことは一度もない。会ったこともないような、どこかの保護者と校内ですれ違っても知らん顔をして通り過ぎていたものであった。時代の違いもあるのかも知れないが、やはり地域差というものが大きいのである。それは学校の先生が一番、身に染みてわかっているようである。その時の息子の担任の先生も言っていたが、ここの子たちはきちんとしているけれど、前にいた中学校では教師がこんなことまでしなければならなかったというようなことである。息子の行っていた中学校では、私の知っている限りではいじめもなかったようであるし、クレイマーのような「変な」親も存在していなかった。ところが大阪のような狭い都市でありながら僅か数十キロ離れると様相が変化するようである。これは私の高校時代の同級生で、教師ではないが公務員として大阪の中学校で働いている人間から聞いた話であるが、各クラスに2~3人くらい、引きこもりの不登校の子供がいるらしい。引きこもりと言っても完全に情報を遮断して引きこもっているのではなくて、今の時代は携帯のラインがあるのでそれで連絡のやり取りはしているとのことである。それで運動会や文化祭の時だけは学校に顔を見せるらしい。変わった引きこもりだなと思うけれど、今の時代はそういう風なのだそうである。またそういう学校では教師が心を病んで引きこもりではないけれど、休職していることも多いのだという。そういう話しを聞かされると気持ちが暗くなってしまうけれどそれが今の日本のまぎれもない現実なのである。成績が全体的に優秀(私の息子は優秀ではないが)で挨拶もきちんと出来るような子供たちの中学校だけを見ていると実感としてそういう現実をイメージし難いのだけれど、それが地域の格差なのだ。引きこもりだけならまだしも、地域性の最悪の所だと、子供が親から食事を与えられずに餓死したり、格闘家のような体格の父親や内縁の男から、小さな子供が躾と称した回し蹴りをくらって頭蓋骨を骨折するような事件も現実に発生しているものである。これは今回の南青山の児相建設についての議論についても言えることであるが、一部の街の高級感やブランド価値というものは、そのような劣悪極まりない地域がどうしようもなく存在するということと、その地域間の絶対的な格差が裏側から支えて、浮揚せしめているものである。この地域性というものの差を0には出来ないであろうが、少しでも小さくしていくことが政治の責任であり、役割であるはずである。それでは何で南青山のような高級住宅地に100億円もかけて児相を作らなければならないのかということだ。単純に考えても、もっと公正かつ効果的で有益な税金の使われ方があるのではないのか。地域のブランドや資産価値を守ろうとする反対意見のために児相の正義が毀損されているという批判は一面的なものに過ぎないのであって、その一面性の見方に集中してしまう言論というものは所詮は勝ち組の論理か、その裏返しでしかないものである。そしてそのような性質の思考や感性で日本全体の空気を統制しようとする手法が自民党の政治そのものなのである。