龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

児童相談所の権限と責任について

虐待を受けている子供の命を児童相談所が救えるかどうかということは、児相の権限の問題なのであろうか。政府は児相の権限を強化すると言っているが、私はそういうところに問題があるのではないと考えている。権限の強化は付随的に必要とされることであって、問題の根本は児相が権限を「行使」する上での、明確な統一された「ルール」があるのか、ないのかということではないのか。権限はあるけれど、その権限が結局は最後まで行使されずに、子供の虐待死が見過ごされてしまったということでは何の意味もないものである。権限があるのであれば、「恣意的な判断」によってではなく一つのルールのもとで「機械的」に行使されなければならないものである。それが子供の命を救うということではないのか。たとえば具体的に言えば、近隣の住民から虐待の疑いについて3回通報があれば、たとえ当該の親と面談した印象がいかに子供に対する愛情が感じられて、その弁明や説明に誠実さがあったとしても、子供を一定期間、その親から引き離して児相やどこかの里親の元で保護するというようなルールが必要である。または近隣住民からの通報が1回目であっても、その時に子供が病院で治療を受けなければならない暴行の跡が確認された時にも同様の措置とするというルールである。さらに言えば、一定の保護期間経過後に子供を実親の元に返す際には、実親の親族や職場の上司、同僚などから子供の安全性を監督する役割の保証人になってもらうための同意書を必要とするといったようなルール作りも必要であろう。そのような保証人がいれば、親は再び子供に対する虐待を再発させてその事実が発覚した時には、その保証人に対して迷惑を掛けることになってしまうので、それなりの抑止力が生じるものと考えられる。それから子供を一定期間、親から隔離させて保護している時には当然のことであるが、児相の担当者は親と定期的に面談して、仕事のことや、経済的な状況、夫婦間の問題や親が心理的に安定しているかどうか、自暴自棄になっていないかどうかなどについて具に調査し、子供をその家庭の元に戻して大丈夫なのかどうかについて慎重に検討されなければならない。もちろん現状においてもそのようなことは行われているとは思うが、果たしてそれが一つの明確なルールに基づいてなされているかというと甚だ疑問である。というよりもそのようなルールがなくて、各児相、個別の恣意的な判断で対処がなされ続けてきたがゆえにこれまで子供の命が救われてこなかったのではないのか。
政府(自民党)は児相の権限を強化するとは言うが、明確なルールを作って適切に行使させるとは言わない。それはなぜなのかということである。仮にそのような統一されたルールがあるとすると、管轄の地域において子供の虐待死のような事件が発生して、児相が事前に問題を把握していたような状況において、児相がそのルールを守っていたかどうかが問われ、守っていなかった場合には必然的に責任が問われることとなるからであろう。責任と言っても、刑事的な責任まではどうかとは思うが、少なくとも道義的に責任が追及されることは不可避であり、所長が職務怠慢によって免職になることは自然な流れだと思われる。つまり政府はそのような事態にならないように子供を守るためのルールを作ることを忌避しているのである。権限と責任の関係性を曖昧にとどめようとしているのである。子供の命よりも児相の正義や正当性、職員の身分の方を結果的には優先させているものである。それが自民党のすなわち日本の政治スタイルなのである。これが欧米諸国であれば、これだけ悲惨な子供の虐待死が続けば、とっくの昔にルール作りが行われているはずである。日本の児相は、女性センターなどもそうだが、多額の税金をつぎ込んで作っているのに運営実態の非透明性であるとか、責任が問われにくい特殊な職務などによって、どこか共産主義国の捕虜収容所のような不気味さが感じられるものである。そのような施設が、南青山のような高級住宅地にハコモノ行政そのままに100億円も掛けて作られようとしているのであれば、その地域の住民が反対運動を起こすのは当然のことだと思われる。