龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

国旗、国歌問題について


法廷に裁判官が現れるときに、事務官の合図で当事者全員が起立して礼をする。特に法令で定められてい

るわけではないが、慣例として誰もがそうする。裁判官などちっとも尊敬していない、起立も礼もしたく

はないと考える人間は少なくないと思われるが、そのような意思表明をすることに何の意味もない。なぜ

なら公判の期日ごとにそのような態度を繰り返していれば裁判官の心証を害して自分が不利益を被ること

がわかっているからだ。裁判官の個人的な感情が判決に影響することはないと言われるかも知れないが、

そのように思わせるだけの権限を裁判官は有しているのだから結局は同じことだ。また法廷の場での起

立、礼は裁判官個人に対するものではなくて裁判の厳粛な雰囲気を保つための儀式における作法のような

ものだという考え方もあるかも知れない。


入学式、卒業式における国歌や国旗に対する教職員の態度も同じではないのか。前回も書いたが、先日の

国旗掲揚、国歌斉唱違憲判決内容について考えていると、また腹が立ってきた。難波孝一裁判長は、国旗

や国歌は強制ではなく、自然のうちに国民に定着させるべきであると述べる。では、聞くがその“自然”

というのは一体どのような状態を指して言うのだ。法廷に裁判官が入廷したときに起立、礼をすることは

自然であって定着していると言える。しかしその“自然”の中には暗黙の強制力が働いているではない

か。それがいけないと言うのではない。そもそも“自然”というものは純一に構成されているものではな

く、いろいろな条件、要素から成り立っているものでありその中には必然的に一定量の打算や無言の圧

力、暗黙の強制が含まれている。これを屁理屈と取るかどうかは日常や言葉に対する感受性の問題だと思

われる。夫婦関係だって100%の愛情や100%の打算で成り立っているのはむしろ不自然であって、

いろいろな感情や思惑が混じりあってそれぞれの“自然”がつくられている。国歌や国旗に関して一般的

国民感情から見ればそれぞれの思いはあるかも知れないが、とうの昔から“自然”に定着しているでは

ないか。今回の判決は現状の“自然”を打ち壊して“不自然”へと、そして安定から混乱へ流れを変化さ

せるものだ。ただし懲戒処分をもって権力で強制させるということの是非という観点から今回の判決を見

れば、それは程度の問題ややり方の問題であり通達文による罰則の明文化や斉唱の声量調査などの方法が

裁判においてはマイナスであったと言うことだ。これがアメリカやヨーロッパの先進国であれば当局が公

共の利益になると信じているところの命令に従わない職員に対する処遇方法は、もっと巧妙かつドラステ

ィックなものとなるのではないだろうか。日本のこういうあまさ、馬鹿正直が国際舞台における外交交渉

の決定的な弱さにも通じているように思えて悲しい。正しい、間違っている以前に未熟が見える。裁判の

結果は訴訟戦術や世論の動向に左右されるもので国家理念の指針とすべきものではない。現に「国際社会

で尊敬、信頼される日本人として成長させるため、国旗国歌を尊重する態度を育てることは重要」として

いながら、もう一方で日の丸や君が代について、「明治から終戦まで、軍国主義思想などの精神的な支柱

として用いられ、国旗、国歌と規定された現在も国民の間で中立的な価値が認められたとは言えない。」

と矛盾するようなことを述べている。それじゃあ、どうしろと言うのだ。戦後60年経過して平和国家と

しての道のりを歩んできても尚、中立的な価値が認められないものなら廃止して新しい国旗や国歌を制定

する以外に方法がないではないか。ドイツがナチス時代の鉤十字や敬礼のやり方を法律で禁じているよう

なことを日本も遅蒔きながら真似ればよいということにならないか。難波孝一裁判長はそのような選択肢

を念頭に置いた上で今回の判決文を書いたわけではないであろうが、わかりにくいのだ。裁判官の頭のな

かでは論理矛盾がないのかも知れないが、少なくとも私には両陣営の主張を適当に折衷させながら問題の

本質をあいまいにして回避し、先送りしているようにしか思えない。まあ、私の頭が悪いだけかも知れな

いけれど。それでも私には、やはりこの種の闘争は、どれほど高尚な言葉で飾り立てられようとも醜悪な

夫婦喧嘩を見せられているような気がしてならない。根底に日本という国家の甘えの構造が見え隠れする

からであろうか。そしてそれは自分自身の個人的な問題が投影されているようにさえ見え、鳥もちに掛か

った鳥のような絶望的な不自由を感じ、何とも言えず鬱陶しい。