龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

国旗起立、国歌斉唱、違憲判決について


公務員であっても民間人同様に各人の思想、良心の自由は当然保護されるべきである。国や自治体が行政

上の権力で個人の心の中に踏み込んではいけないというのもよくわかる。しかし少数者としての意見を保

持するということと、それを公的な場所で表明するということは違う意味合いがあるのではないのか。そ

もそも学校というところは自らの思想を表明する場ではないはずである。何よりも勉強を教えるところで

あり、統一した行動様式と一定の規律の中で集団生活の大切さをしつける場であるべきなのは言うまでも

ない。行動様式の作法や規律の内容が、自らの信条にもとると言って文句をつけていたのではきりがない

はずであり収拾がつかなくなるではないか。卒業式における国旗や国歌に対する態度も同じものではない

のか。なぜ特別扱いするのだ。確かに国旗に起立せず、国歌を斉唱しないということは、いわば消極的な

良心の表明方法であり妨害行為や生徒に同調をあおるような行為ではないので許容される範囲内であると

いうのは一つの見解である。しかし“雄弁は銀、沈黙は金なり”という諺もある通り多数が歌っている中

で一部のみが沈黙を保つ時に、その一部は多数を上回るほどのインパクトと影響力を行使しているのだ。

誰もが起立しているときに少数者が着席していれば、少数者がその場を支配しているのである。今回の裁

判における原告団は東京都立高校の教職員であるが、小学校の卒業式の場面を想像すれば生徒たちの心に

与える影響には甚大なものがある。自分たちを教え導く教師たちが深刻な対立を抱えている光景に心が傷

つくであろうし、子供たちの目には少数の起立しない、あるいは斉唱しない教師が多数の教師にいじめら

れている受難者のように映るかもしれない。多数の論理や多様性の問題や儀式における統一行動の重要性

が卒業式という一つの場でごちゃ混ぜにされているのだ。


石原都知事に同調するつもりはないが、裁判官という人種がどれほど頭がいいのか知らないけれど、やは

り現場のことがわかっていないというか基本的な想像力が欠如しているように感じられる。しかし、あえ

て言えば裁判とはこのようなものなのである。懲戒処分をもって権力で強制させるということであれば、

そしてそれが争点になればどうしたって今回のような判決にならざるを得ないのである。裁判官は社会学

者でも社会運動家でもない。判例に基づいて頭のなかで法律の論理を矛盾ないように組み立てるだけであ

り、その問題の背景にあるものや一部の権利を認めることの全体的あるいは間接的な悪影響はどうでもい

いのだ。よって社会全体でその隙間を埋めていく努力が不可欠だ。今の日本社会の退廃の大きな原因の一

つに規範意識の最上位に法律が置かれていることがあるように思われる。法律はその時代に合わせて社会

を公平に、そして安全に運営していくためのツールに過ぎないのであり、そのツールをどのように運用し

ていくのかというソフトがより一層大切なはずである。法律というツールの基盤となるソフトは人間の意

識によるものであり、人間の意識は社会全体が共有するところの健全な道徳に基づくものでなければなら

ない。道徳感覚なくして法律や権利が一人歩きするような状況が一番危険なのであり、それはまさに今の

日本の姿である。今日飲酒運転などの市職員の不祥事に対してコンプライアンス(法律遵守)の徹底が叫

ばれているが道徳意識がなければ、それこそ馬の耳に念仏だ。今回の国旗、国歌の問題で言えば教育と言

う全体の問題のなかで公務員の身分の保障のあり方を含めてトータルに考えなければならないように思わ

れる。私は正直に言って、今日の公立学校で熱意を持って生徒の学力向上や生活指導に当たっている教職

員がいるとは思えない。まったくいないということはないかも知れないが極めて少ないのではないのか。

教師の価値と言うのは本来、生徒の学力向上や人格形成にどれだけプラスに寄与したかということで評価

されるべきであり給与もそれに応じて支払われるべきであると私は考える。公務員というだけで努力をし

てもしなくとも給与も退職金も変わらない、犯罪や重大な職務違反さえなければ身分が保障され続けると

いうありかたは今日の社会状況にそぐわないのではないのか。もっと民間の手法を導入して教育現場にお

ける価値の向上に役立てるべきだ。学校そのものや教師一人一人の知識、教え方、熱意、生徒との接し方

を厳しく審査する機関を創設して能力の高いものには給与や序列をどんどん引き上げ、能力の低い教師、

やる気のない教師は首にするぐらいのことはしていくべきだと思う。公務員も絶えず切磋琢磨して自己研

鑽しなければ生き残れないような緊張感のある職場環境を作ることが社会全体の価値向上につながること

と思われる。そうすれば生徒に淫行したり盗撮でつかまる教師もおそらくいなくなるであろう。小人閑居

して不善をなす、である。そして、これは国旗や国歌と違って我々の家計に直結する問題でもある。今日

格差社会の中で家計に余裕のある家庭の子供とそうでない家庭の子供が基本的な学力段階において格差

を引き継いでしまうからである。子供のためを思い塾などの教育費に無理をしていれば結局、家計は破綻

してしまう。これは大きな社会問題だ。それらは卒業式における国旗や国歌とは全然、違う問題じゃない

か、混同するなといわれるかも知れないが私はそういう分離思考こそが間違っているように思われる。私

個人の正直な感想を言えば、卒業式の場に国旗や国歌がなくとも別にかまわない。今の国旗や国歌が駄目

だというなら変えてしまえばいいじゃないか。象徴的なものよりも実利を重んじよ、と言いたいのであ

る。そして沈みゆくタイタニック号の船上でいつまでもつまらない演奏会をしている奴らが気に入らない

のである。