龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

いじめについて 2

今朝の朝日新聞、朝刊一面にある女性ジャーナリストが、―いじめを見ている君へ―との見出しの下で子供たちへ、“大人の社会にも不正はあるから偉そうなことは言えないが、いじめを知ったら信頼できる大人に知らせてほしい。担任が信じられなかったら他の先生でもいい。学校以外の人でも構わない。あなたの声に耳を傾けている人はきっといる。”とのメッセージを書き送っている。
一見、尤もらしいコメントではあるが全然、心が伝わってこない。現実的に中学生が学校以外の誰か大人に対していじめの問題を相談したところで、誰が真剣に取り合ってくれるだろうか。学校の先生かご両親に相談しなさいと言われるのが落ちである。それとも人権擁護委員にでも訴え出ろと言うのであろうか。私に言わせれば、このように言葉を美しく飾ろうとする大人の感覚があるから、子供の世界からいじめはなくならないし、また大人は子供のいじめを見て見ぬふりをすることにつながるのである。この女性ジャーナリストの言葉といじめの現場にはあまりにも距離感があるように感じられる。社会的な問題の根本を直視しようとせず、軽薄なヒューマニズムでことの本質を糊塗するなと私は言いたい。そういう態度が私には金八先生的なTVドラマ風であり、反吐が出そうな気分に陥るのだ。大津中の生徒は、報道によれば実際に担任に電話で救いを求めていた。他の多くの生徒たちもいじめを見て心を痛めていた。子供たちは大人が考える以上に現実をありのままに受け入れる能力がある。子供たちは世界が美しくないことを、大人と同じように知っているのだ。子供たちの間で繰り広げられるいじめは、大人社会の転写に過ぎない。大人の世界と子供の世界を切り離して考えることはできないということだ。大人の世界と子供の世界の違いは、大人の世界には本音と建前があるということであり、子供の世界には本音しかないということである。大人は本音と建前を使い分けて生きている。公式の発表や社交的な場では社会が求めるところの建前を適切に、巧みに述べることが暗黙裡に要求されているので、それに応えなければならない。それが大人の世界だ。政党のマニフェストも、いじめを隠蔽しようとする教育委員会や学校の説明も皆同じであり、真相や真実よりも、嘘を塗り固めて共通の真実らしきものを作り上げ、それを押し通してゆくことの方がより重要なのである。しかし今回の子供の自殺のように時として、捏造された真実らしきものの価値が、一人の罪なき生命の喪失の前で揺らいでしまうこととなる。必然的に大人の世界が、つまり社会全体が激しく揺らぐのである。それが今回の騒動の実相だと言えるであろう。一説では、今回自殺した生徒の担任教師は、いじめている方に心情的に加担して、形式的にいじめの注意はするものの、いじめている生徒たちにほどほどにしとけよ(つまり、ほどほどにいじめろ)と言っていたと伝えられている。あるいは弱い方がいじめられて、強い方がいじめるのが一つの自然の摂理であるかに考えていたようにも報じられていた。この場合の強い、弱いは単に肉体的に喧嘩が強いとか、あるいは成績が良いとかということだけでなく、親の経済力や社会的地位、学校への影響力なども含めて総合的に生徒の優劣が、区分けされていたということではなかろうか。もちろんこれは担当教師の心の中の本音の部分であり、絶対に公式の場で認められることではないであろうが、結局、大人の本音が子供の世界に投影、転写されるのである。それがいじめの本質であると思う。また昨今は日本の将来に希望のない閉塞的な社会状況の中で、生来的、家庭環境的に上位の者と下位の者が、学校内でも身分的に固定化されて目に見えない階層構造が形成され、それが学校、教師、生徒も全てを巻き込んだ中で一つのいじめ環境が醸成されているのではないかと危惧されるものである。とにかく今のような社会情勢の下では根本的にいじめの根を絶つことは難しいであろうが、いじめがあった時に子供の命を守る(自殺させない)ことは絶対的に大人の責任であるはずである。ところが現在の文部科学省直轄の一元的な教育行政においては、いじめがあること自体が評価的に好ましくないとされているので、学校は徹底していじめがないとの現状認識に立とうとするし、教師もいじめを見て見ぬふりをすることになる。そして今回のような生徒のいじめによる自殺があったとしても、いじめはなかったとか、いじめと自殺との因果関係がない(曖昧だ)などと言わざるを得なくなるということだ。これでは子供の命は救われない。いじめが犯罪だというなら、いじめを見て見ぬふりをする大人たちこそより罪の重い犯罪者と言うべきではなかろうか。もちろん子供たちのいじめは一見したところ遊んでいるのか、いじめなのか判然としないケースの方が多いであろうが、そこはやはり教師はプロであってしかるべきであるし、そのためにこそ国は給料を支払い、今の不安定な社会の中で教師は公務員としての安定した地位が保たれているのである。わからなかった、知らなかった、で済まされる問題ではない。形式的なこと、建前的なことでお茶を濁すようなことだけはして欲しくない。そこで一つ標語を考えたので、全ての学校において毎朝、校長先生以下全ての先生に大声で5回、唱和していただきたい。
“見て見ぬは、いじめる子より 悪き人”
また校内の掲示板では“ストップ・ザ・いじめ”のポスターを至る所に貼り、放送では子供たちに休み時間ごとに「いじめは犯罪です。いじめを見かけた人は至急、担任の先生か職員室に連絡してください。」とのアナウンスを流させるべきだと思う。文部科学省からお偉い役人が派遣されてきての調査など要らない。それこそ税金の無駄遣いだ。そもそも地方分権統治機構のあり方においては私は文部科学省は不要だと考えている。そのことについては別の機会に詳しく述べたい。