龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

いじめについて

いじめの問題に関しては、私も一人の子供の親として言わせていただければ、本気で今回の大津中のような自殺を防ごうと考えるのであれば、やはり責任を明確にするということは非常に大事であると言える。何で大津中の事件だけこんなに大騒ぎになるのかよく分からないのだが、結果的に子供が自殺をするようなところまで追い込まれていて、いじめの形跡が少しでもあったのなら、いじめと自殺の因果関係がどうであるとか、いじめがあったとの認識が有ったか無かったかなどとは無関係に、担任の先生や校長先生、所轄の教育委員会の担当者は、やはり責任を取って懲戒解雇に処されるべきであると思う。当然、退職金など支払われるべきではない。学校や教職員の立場から見れば、それは厳し過ぎると言われるかも知れないが果たしてそうであろうか。法廷で犯罪を裁くには因果関係や認識の有無などの立証が必要となるであろうが、大人の世界では基本的に結果に対して誰かが責任を取らなければ、有耶無耶にして済ませるようなことをしていれば、何度でも同じ悲劇が繰り返されることになるだけである。大人がきちんとけじめをつけられない社会では、巡り巡って罪なき子供がいじめという形で命を奪われることで善悪の帳尻が合わされているのだと私は思う。これは今の日本の政治ともまったく同根の問題ではないのか。“罪を憎んで、人を憎まず”などと言うが、誰を憎むかということよりも、私は“具体的に何を問題視すべきか”が重要なのだと思うのである。子供から相談を受けていた教師が見て見ぬふりをしていた、と報道されているが、もちろんそのような教師の態度には責任はあるし、当然、結果責任は問われるべきだと思うが、それではその教師の資質や人格に根本的に問題があったのかと言えば、決してそういうことではないのだと思う。敢えて身も蓋もないことを言わせていただくが、誰だって、正直なところでは煩わしいことには関わりたくない。一口にいじめと言っても、その子供の家庭環境などの複雑な問題が関係している場合などもあるであろう。教師は聖職者ではなく、一介の公務員なのである。公務員の本質は、事なかれ主義だ。よって事なかれ主義の観点から言えば、見て見ぬふりは、教職員の本能であって必ずしも欠点とは言えないということだ。しかしそのために子供の命が現実に、結果的には見捨てられているのである。それではどうすればよいのかと言えば、公務員である教師の本質と本能を変えていくより他に道はないではないか。そしてそれが政治の仕事であろう。つまりは個々の教師の理想やモラルに訴えても仕方がないのである。教師のモチベーションを変える仕組みを作っていかざるを得ない。教師の方々には厳しいことを言わせていただくが、うやむやに出来ると思うからこそ、見て見ぬふりをするのである。万が一でも自分の受け持ちの生徒が自殺するようなことが起これば、問答無用で首になり退職金ももらえないというルールがあれば、いじめを見て見ぬふりなど出来るであろうか。誰もしないであろう。眼を皿のようにして、学校内でいじめがないか監視することになるであろう。私はその方法で正解だと思うのである。子供の命を守るとはそういうことではないのか。アルビン・トフラーが何かの本に、組織の中で人が動くモチベーションは金と評価の二つだけであると書いていたが、それは普遍的な真理だと思う。人間が組織の中で動く原理原則は理想やモラルではないのだ。金と評価である。それは今の民主党を見ていても分かることであろう。確かに個々の教師を見れば素晴らしい人はたくさん存在する。しかし粉骨砕身して、ボーナスや給料が増えたり特別手当てがつく訳でもないのに、いじめの問題に真剣に取り組んでいこうと考える教師などいる訳がない。いるとしてもごく少数であってそれは例外なのだ。教師像全体にそのような聖職者としての幻想を抱いている人は、下らないヒューマニズム助長のTV学園ドラマを見過ぎて脳をやられているのだと思う。繰り返すが、いじめから子供の命を救うには、理想やモラルに訴えても何の効果もない。周りの大人たちのモチベーションを変化させる以外に道はないのだ。いじめている子供の親が地元の有力者であれば教師は見て見ぬふりをし、いじめられている子供の親がPTAの会長であれば教師は血相を変えていじめている子供を叱りつける。それが悲しいかな大人の世界である。処世的なモチベーションに左右されて、その都度、大人は態度を変えるものだ。だからこそ子供の命を救うような大人のモチベーションを時代に合わせて社会は作っていかなければならない。それが文明国家の在り方ではないのか。先日、夜回り先生として知られる水谷修氏が報道ステーションに出演していて大津中学での自殺問題についてコメントをされていた。私は水谷氏は大変に立派な方であると思う。本気で子供のことを考えている。そして世の中には水谷氏のような立派な先生もいるのだから、基本的には学校や教師を信用すべきではないかと考えている人も多いであろう。しかし果たしてそうであろうか。一つの学校に僅か一人でも、水谷氏のような先生がいればどうして水谷氏は有名になることが有り得ようか。決して嫌味ではなく、水谷氏のご活躍は社会から失われてゆく良心、滅び行く希少種が残存している特別天然記念物として注目されているのであり、今や子供をいじめから守るために学校や教師の良心に何も期待できないことの確かな反証であると言えるのではないのか。良心、道徳という名の幻想が子供の命を奪うのだ。