龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

いじめについて 3

それでは具体的に、いじめを受けた時にどのような対応を取ればよいかということについてであるが、先ず最初にはっきりとさせておかなければならないことは、学校という所は家庭と違って集団行動の中で規律とか秩序、協調性を学ぶべき訓練の場であって、生徒にとって楽しいばかりの場所ではないということである。嫌な事とか、辛いこと、面白くないことも耐えなければならないのが学校だ。私が記憶するところでは、何年か前に、いじめを苦に自殺した小学校の女子生徒が、給食を一人で食べていたとの報道があった。小学生ぐらいの女の子が教室の中で、ぽつんと一人で給食を食べている光景ほど不憫なものはない。しかし、だからと言って、担任の教師が気を利かせて同級生の子達を呼んで、何々さんと一緒に給食を食べてあげなさいと指図するのが良いのかと言えば、私には疑問である。自分から積極的に友達を作ろうと努力したり、輪の中に加わってゆく勇気を持たなければ、孤立してしまったり、はみごの状態に陥ってしまう。そういうことを学ぶ所が学校だとも言えるからだ。またそれが家庭との根本的な違いだとも言える。老婆のように、世話を焼きすぎるのが子供たちにとってプラスになるとは言えない。そういう意味では、“見て見ぬふり”も必要なのである。子供たちは基本的には自分の力で活路を開いていかなければならない。自分で活路を開くことが出来ないのであれば、ある程度の不遇は我慢しなければならないと思う。しかし限度というものもある。学校は、特に義務教育の小、中学校は必ず行かなければならない所である。いじめを受けていても、はみごにされていても登校拒否することは許されない。しかし、死を決意してまでも登校し続けなければならないのかと言えば、絶対にそのようなことはないと思う。子供が自殺を決意するまでに追い込まれている状況があるならば、それは子供自身の責任ではなくて、そこまでの深刻な事態を見て見ぬふりをしている教師や学校の責任なのである。だからそのような場合には、子供は登校拒否、登校忌避が正しいのだと私は思う。自殺を決意してまで行かねばならない学校とは、一体、何(誰)のための教育なのであろうか。とは言っても、子供には大人世界の大きな壁のような道徳や正義に立ち向かえなくて当然である。そこまでの知恵や自由が欠如している存在こそが、すなわち子供なのだから。よって我々大人が本気で子供を自殺から救おうと考えるのであれば、大人が子供の立場、目線で一つの道を指し示してあげなければならないと思う。それは、先に述べたように学校は必ず行かなければならない所ではあるが、死ぬような思いをしてまで行く必要はない、あるいは行ってはいけないところだと明言してやることだと思う。この明言一つで、悩みに悩んでいる子供は大いに安心し、救われるのだと思う。しかし大人は、とくにいじめを見て見ぬふりをしている教師は絶対にそのようなことは言わないし、また言えないのである。なぜならそう言ってしまえば、自らの教育者としての欠格を認めてしまうことに等しいからである。子供たちの命よりも大人の対面が守られる構図がここにある。それでは子供が大人の保身的な社会論理から命を守るために、どのようなアドバイスがなされるべきであろうか。私はこのようなアドバイスをしたいと考える。いじめを受けて死にたいような気持ちになっている子は、一冊、新しいノートを用意して欲しい。子供も自分の命を守るためには大人のように振舞わなければならない。すなわち詳細な証拠を残すということである。悪質ないやがらせなどのいじめに会った時には、自分の言葉でその都度、そのノートに詳しく、誰がどのようなことをしたのか、言ったのかを日付と共に記録して欲しい。味方になってくれる友達や親、先生などに相談した時にも、その時の相手がどのような対応であったのか具体的に書き残すべきだ。そしてもうこれ以上我慢して学校へ行き続けなければならないのであれば、死んだ方がましだと思うようになった時には、遠慮なく学校を休めばよい。いや、行ってはいけない。学校を休み続ければ、必ず誰かから理由を聞かれることになるだろうからその時に、それまで書き留めてきたそのノートを見せればよいのだ。学校を休めばその分、勉強は遅れるであろうが、当たり前のことだが命の方が大事だし、人生の長い目で見れば一時の遅れなど必ず取り返せる。むしろ、いじめが放置されて、基本的な教育を受ける機会を奪われていること自体が人権の侵害であると言えるのだから、学校を休んだからと言って誰からも責められる理由は一切ない。反対にそのノートを証拠にして、いじめている子やいじめを見て見ぬふりをしている大人たちに復讐ができるのだ。大人の社会では本当は、被害者のほうが、つまりいじめられている方が強者なのである。だから大人は、誰もが被害者のふりをしたがる。道を歩いていて、擦れ違った車のミラーがちょっと身体に当った程度でも、保険会社から多額の補償を貰おうとして大袈裟に骨折したように痛がる人は多い。それに似たような事例は無数にある。もちろん大人の世界でも、とことん弱者になってしまったら、弱者の権利を振りかざす元気すらなくなってしまって自殺にまで追いやられる人は多い。大人社会の方が社会的ないじめや自殺の問題は深刻であると言えるであろう。子供にも大人にも共通して言えることは、いじめられている事実を恥ずかしく思ったり、自分の責任だと諦めてしまって、弱さを強さに転換させる闘争心や知恵が出てこない人が本当の弱者になってしまうということである。子供は子供らしく生きるのが美しいのかも知れないが、そもそもいじめは前回にも述べたように大人世界の本音の反映である。大人のいじめに、どこまでも子供らしく対応していたのでは、死ぬしか選択肢がないということになりかねない。だからきちんとノートに証拠と記録をつけて、日々そのノートを読み返しながら、いじめの相手や見て見ぬふりをする大人たちへの復讐の方法を考え続けて欲しい。それが生きるということなのだ。