龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

言葉と権力

言葉というものは、正確に使わなければならない。なぜなら、その間違った用法に、現実の認識や解釈が引きずられてしまうからだ。たとえば、「いじめ」という言葉は、加害者の存在が前提となっている。学校などで、「このクラスには、いじめがあります。」ということは、「このクラスには、いじめの加害者がいます。」と言っていることと、ほぼ同義である。しかし誰かが、そのクラスの雰囲気に何となく馴染めずに孤立していたり、仲の良い友達が出来ず寂しい状態に陥っている状況を果たして「いじめ」と命名して良いものだろうか。お茶の水女子大学付属小学校の2年生に進級された悠仁親王が学校内でいじめの状態にあるとして、母親の紀子さんが心配されて、担任の先生にきちんと対応してもらえるように複数回に亘って相談しているとのことである。紀子さんの母親としての気持ちは理解できるし、皇族とすれば大変に勇気のある行為だと思う。そういうことは皇族ではない我々一般人でも、或いは一般人だからかも知れないが、中々出来ないことである。なぜなら今の世相では親が下手にそういう相談を学校に持ち込めば、モンスターペアランツ扱いされる恐れがあるからである。だから元々、余程ガラの悪い親はともかく、我々のようにごく普通の感覚を持った一般の親は、子供のことで学校に抗議と受け取られるような相談をすることは、正直なところ怖いのである。一旦、モンスターペアランツの烙印を押されてしまえば子供の評価にも、どのような悪影響があるか実際のところはよくわからないからだ。そういう意味では「モンスターペアランツ」という言葉も、日教組の影響力で、教師の待遇を高めるために朝日新聞などの左翼言論によって、世の中にある種の抗議抑制として発明され、広められた造語だと私は考えている。もちろん学校が、将来の天皇陛下の母親をモンスターペアランツ扱いなどできる訳もないから、我々一般人と同等に論じることは馬鹿げたことであることはわかっている。それでも私は自分の真情をきちんと伝える行動力を持った紀子さんは偉いと思うのである。まあ、母親だから許されることかも知れないが。これを父親が為すとなると、学校とは不思議な所でより一層に壁は高いのである。そういうことを踏まえて言わせていただければ、私はそれでも紀子さんが「いじめ」という言葉にまで言及するのはどうかと思うのである。「いじめ」という言葉が認定されて(誰が認定するのか知らないが)、世の中に罷り通ってしまえば、語義上の必然として、それでは誰が「犯人」だ、ということにならざるを得ない。愛子さんの不登校の時と同様に、「いじめ」という言葉は加害者を照射するものである。もちろん加害者を特定しなければならない「いじめ」も社会にはたくさん存在するのであろうが、そうでないものにまで「いじめ」を幅広く適用すると、何の悪意もない純粋な子供たちまでを「犯人」に仕立てて、誰かを自殺に追い込むような本当に悪質な「いじめ」が、よくわからないような人権上の理由からいつまでも放置されたままに成りかねないものである。それが学校と言うところの官僚主義の弊害である。「いじめ」だけでなく、「暴力」とか「DV」などという言葉も皆、同じである。全ては言葉の漠とした捕捉が現実を一つの型に流し込ませることによって、政治上の統治を補完するための手段になっているのである。マスコミなども底流では、そのような政治上の捕捉と深く結びついていて、離れることが出来ないのである。ここにおいて重要な点は、政治上の捕捉とは、「道徳」とは似て非なるものであるということである。便宜的なものに過ぎないのだ。中身がないということでもある。それは韓国がいつまでも従軍慰安婦の問題で日本を批判し続けるのと同じで、表面的には「道徳」を装っているが、実質的には何の中身もないものである。日本は韓国のような後進国よりも高度に洗練されているから見え難いだけで、政治上の統治と言う観点から見れば、実は韓国も日本もそれほど変わりはないものである。違いは韓国のやり方は日本に比べて、いかにも原始的で品がないということだけである。一つの言葉とか、表面的な概念だけで政治的に現実を捕捉してはならない。それは「いじめ」も「暴力」も「DV」も全ては同じである。話が逸れたが、悠仁親王のいじめの件に関して言えば、「いじめ」ではなく、「仲間はずれ」の方がまだ現実に即した表現であると言えるであろう。親の我が子を思う気持ちからすれば、「仲間はずれ」も重大な「いじめ」であると考える気持ちはよくわかるが、どうなのだろうか。悪意があって無視したり、仲間はずれにしているのであれば、それは間違いなく「いじめ」であるが、何となく仲間はずれに近い状態に陥っているのであれば、それを「いじめ」と命名することは不適切なのではなかろうか。「仲間はずれ」も悪意があってこそ、「いじめ」の範疇に仲間入りするものである。小学校2年生の子供たちにそのような悪意があるとは、ちょっと考え難いものである。そういう場合は、「いじめ」とか「仲間はずれ」などという言葉は一切使わずに、黙って見守るか、ただ「仲良くしてあげてね。」と他の子供たちにお願いすることではないのか。そしてそういうことも、父親よりも母親の方が向いているものである。