龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

無能政治の代償

どうも韓国政府の、沈没した「セウォル号」に対する捜索活動には解せないところが大きい。今頃(数日前)になって客室の窓を、ダイバーがハンマーで叩き割って浸入するのであれば、どうして沈没直後にそうしなかったのか。事故発生直後の16日時点の報道では、悪天候を理由に、少なくとも丸一日以上は、何の救助活動もなさずに放置していた。沈没して2~3日、経ってからそろり、そろりとした感じで救助なのか、後始末なのかわからないような捜索活動を始めたように見られる。これでは言葉は悪いが、船室に閉じ込められた乗客が完全に死ぬのを待ってから、遺体の引き上げ作業をしているようなものである。逃げ遅れて船室に閉じ込められた乗客が、果たしてどれだけの時間、生存していたのか、本来であればその点がしっかりと検証されなければならないはずなのに、マスコミはその部分については全く触れようとしない。なぜならその解明こそが、韓国政府による救出活動の有り方の是非、責任が問われるところの重大な核心部分であり、それゆえに決して政権批判にならないように、遠慮の力学が働いて、曖昧にぼやかされているのだと思われる。そして責任を全て船長や一部の乗務員に集中させるような論調が情報空間を支配している。パク・クネなども、船長の行為に対して「殺人的だ」などと批判しているようであるが、傍から見ている分には、パク・クネこそが「殺人的に無能」である。確かにあの状況においては、沈没直後に船内の生存者を救出させることは非常に困難であったであろうし、その可能性も小さなものであったとは思われる。しかし映画『タイタニック号』の一場面を思い返して見ても、船がひっくり返ってからも最低でも数時間は、船室に閉じ込められた乗客は生存していた可能性が高いのではないのか。構造的に考えても、船室に水が一斉に流れ込んできても、密閉状態に近い空間であれば、空気は完全には抜けきれず、さかさまになった船室の上部に残余していたと考える方が自然であるからだ。船が沈没直後に、逃げ遅れた乗客全てが溺れ死んだという状況は考えられない。閉ざされた真っ暗闇の船室の中で、高校生たちが水面上に首を出して、救助が来ることを信じながらお互いに励まし合っていた状況が想像されるものである。(残酷な想像ではあるが。)もちろんそのような状況下で、ダイバーが外からハンマーで窓を叩き割っても、船室内から全ての生存者が脱出することは不可能であろうが、海中に沈んだ船室の位置の深さを考えれば、恐らくは海水面まで7~8メートルぐらい迄の距離であろうから、エアボンベなしでも相当数の乗客は生還することが出来たのではないのか。そのように考えれば、沈没直後に、ダイバーは海中に没したあらゆる船室の窓をハンマーで割る作業に徹するべきであったとも言える。ダイバーの危険を慮ったのかも知れないが、船室にまで侵入する必要性はなかった。そのような、つまり生存者がいる状況でダイバーが窓から船室に侵入すればパニックになるだけで、ダイバーまでが確実に道連れになっていたことであろう。しかし車が崖から海に転落して沈んでいく状況と同じで、誰かが外部から窓を割ってくれなければ、助かる見込みはないものである。ところが先にも述べた通り、韓国政府は悪天候を理由にして、一分一秒を争う時に、丸一日以上放置し、日本を含め諸外国からの救援の申し出も断った。これでは韓国政府が、乗客を見殺しにしているのと同じである。韓国政府が、という事は、言い換えれば、パク・クネがということである。はっきり言えることは、国と体制を問わず、無能の政治家は、無能ゆえに民の命をも犠牲にするということである。