龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

共時性について

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共時性という原理がある。ユングが提唱したことで有名な概念である。私は20歳代後半の数年間、この

共時性の中で生きていたと言っても過言でないような時期があった。たとえば、わかりやすい例で言えば

商店街を歩きながら、ある有名人のことを考えていたとする。そしてふと目を遣ると、まさにその有名人

のポスターが貼られているのが目に飛び込んでくるといった具合である。ありていに言えば、奇妙な偶然

の一致である。主観的、個人的な解釈を述べれば、共時性というものは、思考に深く入り込んでいる状態

で、時間や空間が意識と結びついて何かしら意味のあるような現象を目前に現出させる超日常的な場のよ

うなものである。そして一度起こると、目に見えない道が出来たように何度も続けて起こる。ある時期の

私の場合はそうであった。特に考え事をしている状態でなくとも、日常的に頻繁に共時性は発生し続け

た。最初の頃は、何かしら意味があるのではないかと考えた。宗教的な何らかの啓示や導きかも知れない

と考えたり、形而上的な神秘主義に陥りそうにもなった。しかし、あまりに頻繁に体験すると特別な意味

など何もないということが次第にわかってくるのである。そういう点で私は救われたのだ。たとえばデジ

タル時計の数字が揃うということがある。何かをしていて、ふと近くにあるデジタル時計を見ると、不思

議と11時11分であったり2時22分であったりするのだ。この現象はイギリス作家コリン・ウィルソ

ンの『オカルト』にも彼自信の体験として確か紹介されていたような記憶がある。それから今から1年ほ

ど前に読んだ笙野頼子さんの『金毘羅』にも同じことが書かれていてびっくりした。私とコリン・ウィル

ソンと笙野頼子には何かしら通底するものがあるのだろうか。しかし、考えて見るまでもなくデジタル時

計の数字が揃うことに何の意味もないのである。得することもない。はっきり言ってナンセンスで馬鹿げ

ているのだ。必要以上につまらないことに意味を求めていると程度のよくない私の頭はおかしくなるであ

ろうし、行き過ぎれば発狂するかも知れない。そのように割り切って考え、共時性を無視し続けている内

に何故かしらある時期から起こらなくなったのである。不思議なものである。


しかしたまに起こるのである。それが昨日の朝、起こった。朝起きて、机の上に積まれてある本の一冊を

何気なく取った。高階秀爾著『近代絵画史(下)』中公新書である。何ヶ月か前に美術館で買ったまま読

まずに放ってあった。たまたま開いたページに載っていた絵に見入ってしまった。数人の人物の全体像が

正面から描かれているのであるが、何かしら印象的なのである。絵の上半分の淑女の表情は取り澄まして

いるが内面が見えてこない。紳士たちは俯き加減で抑圧されているような気配が感じられる。絵の下半分

は、人物たちの下半身が流れて先細ってゆくように不安定に描かれており、見ていて不安を掻き立てられ

るような構図になっている。1分ほどの間であるが面白いなと思いながら見ていた。

その日の昼に読売新聞の朝刊を見ていると、私が朝見ていた絵と同じタッチの絵がカラーで掲載されてい

て驚いた。私は名前も知らなかったのであるが、私が朝たまたま見ていた絵とその日の読売新聞に載って

いた絵はドイツのキルヒナーという画家のものであった。読売新聞の記事の内容は以下の通りである。1

998年にドイツなど44カ国とユダヤ人団体などが合意した「ワシントン宣言」により、ナチス時代に

押収されたり売却されたりした美術品について返還要求があった場合、売却価格が当時の基準で適正だっ

たことや、売却代金が実際に支払われたことを現所有者が証明できなければ返還しなければならない。キ

ルヒナーの名画「ベルリン通りの情景」はもともと製靴業ヘス氏が所有していたものを同氏死後の193

6年にヘス氏の妻によってドイツの画商に売却され、その後ベルリンのブリュッケ美術館に転売された

が、2004年にヘス氏の孫から返還要求が出され、画商側が売却代金を支払ったことを証明書が見つか

らなかったためにヘス氏の孫の女性に返されることとなり、その女性はニューヨークでその絵を競売にか

けて45億円を手にした。ブリュッケ美術館側の弁護士によれば「ヘス一族は1929年の大恐慌で事業

が苦しくなり、資産売却を進めていた。ナチス政権に強制されたのではない。」ということである。

私は前日までキルヒナーという画家の名前も知らなければ、作品を見たこともなかったのである。それが

その日の朝と昼に二度、出会った。『近代絵画史(下)』によれば、キルヒナーの鋭敏すぎるほどの社会

意識は晩年にいたるまで彼に憑きまとって離れず、ナチスの登場以後ついに彼を自殺にまで追いやってし

まうほどのものだっとということである。

もちろん、ただの偶然にすぎない。偶然に意味などない。しかし偶然ほど恐ろしいものもないのである。

私が意識せざるところで何かが動いているからだ。キルヒナーの絵はムンクを思わせる。それで、社会は

どうだ。我々の社会はどこに向っていくのだろう。キルヒナーの絵には何かがある。