龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

『裁判官が日本を滅ぼす』2


『裁判官が日本を滅ぼす』新潮文庫 門田隆将

第三章 犯人が消えてなくなった仰天判決

1993年1月13日に発生した山形マット死事件についての裁判である。被害者の児玉有平君(当時1

3)は、体育館の用具室(マット室)の中で、円筒形に巻いて立てられていたマットの中心部に逆さに突

っ込まれた状態で発見された。その5日後に7人の少年が逮捕・補導される。山形県警新庄署の捜査で一

度自供した7人の少年は、弁護士がつくや1人を除いて6人が犯行を否認。山形家裁での少年審判では、

7人の少年の内、児童福祉司の指導となった1人を除いて、山形家裁が3人を監護措置、3人を不処分

(無罪)とする。監護措置の処分を受けた3人が直ちに抗告すると、それを受けた仙台高裁では、今度は

3人どころか「7人全員関与」の判断を示して、一審の結果を全面的に否定し7人全員の有罪判決を下

す。そして上告を受けた最高裁でも、その仙台高裁の判断は支持され刑事裁判上、7人全員の事件への関

与が確定する。その判決を受けて有平君の両親は、真実を知りたいとの思いから1995年に少年と新庄

市を相手に損害賠償訴訟を起こす。7年もの歳月をかけた2002年3月19日、山形地裁の手島徹裁判

長から出された判決は原告(有平君両親)の請求を棄却するというものであった。


7年にわたった民事裁判で、少年たちが警察に対しておこなった供述調書が全て法廷に証拠として提出さ

れていた。遺族に知らされることがなかった事件の全貌がそこには書かれていた。少年たちの供述調書の

内容の一部が紹介されていたが、それは有平君の両親でなくとも私のように子をもつ親であれば誰もが正

視に耐えないものである。一発芸を断ったがために7人の少年に囲まれ、プロレス技をかけられたり殴ら

れたりしながらフラフラの状態になって逃げ出すこともできなくなった有平君はマットに逆さにして無理

やり突っ込まれる。その直前には有平君は「助けてください。許してください。」と何度も命乞いをして

いるのである。マットに逆さに押し込んだ状態のまま放置しておけばたいへんなことになることを承知し

ていながら、少年たちは有平君の必死の悲鳴を背に何食わぬ顔でマット室を出てゆく。主犯格の少年はマ

ット室の前で7人の内の2人とバスケットをしたあとに学校を出て、その後彼女とデートをしているので

ある。その日午後8時過ぎに有平君は発見される。白いTシャツに紺色短パン姿の有平君の顔は欝血し、

無惨にも2倍ぐらいの大きさに膨れ上がっていた。西瓜のようにパンパンに腫れ上がった頭部は、それが

誰だか判別も出来なかったほどであった。このような死に方をした有平君に対して手島徹裁判長は原告請

求、棄却の判決理由として

<供述証拠のみでは、被告元生徒らと本件事件の結びつきはおろか、本件事件のいわゆる事件性すら認定

することができない>

と述べている。これは私が前回書いた、痴漢冤罪とはケースが異なる。7人の少年たちは、疑わしきは罰

しない刑事裁判において有罪が確定しているのである。そして一旦は自白に及んだ少年たちの膨大な供述

調書が提出されていたのだ。民事が刑事から独立しているといっても、それらを全て否定するということ

は本来、並大抵のことではないはずなのである。刑事裁判そのものに欠陥があったことや、警察の取調べ

における重大な事実認定の誤りがあったことをより積極的に示さなければならないはずである。手島徹裁

判長が述べるところの少年たちの自白の信用性を肯定することが出来ない、有平君が自分からマットに潜

り込んで死んだ可能性があるなどはすべて恣意的な感想のレベルである。要するに手島徹裁判長は、刑事

において有罪が確定した後に常識的に考えれば原告の請求を認めざるを得ないような状況で、たとえ事件

についての全容を知りたいという理由からであったとしても損害賠償訴訟が起こされたこと自体を面白く

考えていなかったのか、あるいは少年たちにそこまでの責任を負わせる必要はないとの勝手な判断で、は

なから歪曲した事実認定をする意図を有していたとしか考えられない。そんな馬鹿な、仮にも裁判官とも

あろう者がそのような理由で判決内容を決めることなどあり得ないというのが世間一般の考えであるので

あろう。しかし現実はそうでもないのである。一口に裁判官といっても様々なタイプが存在するのであろ

うが、大体において裁判官という人種の中身は“非常識”“倣岸”“世間知らず”などの言葉で表される

性質にいきつくのである。たとえば本書の中で取り上げられている、弁護士が語る信じられないような話

しであるが、賃貸でアパートを借りたことがないため“敷金”という言葉を知らない裁判官がいたとい

う。実生活で払ったことがないし、システムを知っているわけでもないので理解できずに取り違えたへん

な賃貸訴訟の判決が出たことがあるとのことである。裁判官の言葉、判決というものに深い意味があるよ

うに受け取ったり、神のご託宣のごとく有難がってはいけない。おかしいものはおかしいと声を上げてゆ

くことが何よりも大切だと私は思う。尚、2004年5月28日、児玉夫妻の控訴を受けた仙台高裁は一

審の判決を覆し「少年7人の関与」を認め児玉夫妻の逆転全面勝訴とした。この控訴審敗訴を受けて元少

年たちは最高裁に上告するが2005年9月6日最高裁はこれを棄却し元少年たちの敗訴が確定する。し

かしなおも元少年たちはこれを不服として再審請求を行なう動きを見せているとのことである。

有平君は事件前から執拗ないじめを受けていたらしい。今日、いじめによる子供たちの自殺が連鎖的に続

いている。有平君の死から13年たっても社会全体として教訓が生かされるどころかより一層状況は悪化

しているように感じられる。有平君の悲惨な死を無駄にして欲しくない。そういう思いからいじめの問題

についてもここに書きたい。

いじめについては、人それぞれに様々な思い、考えがあるのであろうと思われる。どの考えもおそらくみ

な正しいのだ。それでも私は思うのである。目の前で溺れている子がいれば、すぐ近くにいる人間が飛び

込んで助けてあげなければならない。当たり前のことではないか。そのような条件反射的な危機管理が組

織の中できちんと機能していて初めて、溺れる子にも問題があるとか、溺れることなく無難に泳いでゆけ

る能力の養い方について議論する意味が生きてくるのである。学校という環境の中でいじめという濁流に

呑まれ溺れている子供がいるならば、すぐ近くにいる人間は教師以外にあり得ない。どうして学校という

現場や教育委員会は、いじめという現実をこれほどまでに認めたがらないのか、また隠蔽しようとするの

であるのか。これは事後処理の問題ではなく事前対応も同じであろうことが明らかであるから、私は無性

に腹が立ってくるのである。目の前に溺れている子が流されていてもそちらの方を見ようとしない。意識

して見ようとしなければ当然見えないし、見えないものは元からなかったという論理だ。しかし本質的に

は見殺しにしているのと同じである。見ようとしないで見殺す、そして見られず見殺しにされるものは弱

者であるという構図は教育現場に関わらず、今日の日本という国家の公的な権限が及ぶ様々な領域で固定

化されつつあることのように思われる。そしてそのような構図のなかで尊い子供たちの命が犠牲になって

いるのではないのか。山形マット死事件新庄市立明倫中学校においても教師たちがいじめの現実を知ら

なかったわけがないのだ。もちろん、いじめそのものは子供たち同士の関係から生ずるものであって直接

教師に原因があるわけではない。また教師をいくら批判したところでこの世からいじめが消滅することは

あり得ないであろう。しかし自殺を考えるまでに追い詰められている子供が、子供たち同士の関係性から

救われるなどということはちょっと考えられない。子供という生き物は大人に比べて意識の視点が低いか

らこそ子供なのであって、やはり大人が介入してきちんと物事の道理や道筋を示してあげるのが大人の役

割なのではないのか。私には偏見があるのかも知れないが、教師という大人と生徒という子供が意識の上

で同じ目線の高さで対峙しているような、奇妙な人権思想の弊害のようなものが教育現場にはあるような

気がしてならない。また目の前にある危機にきちんと優先順位をつけて対処するということはやはりシス

テマチックなマニュアルに基づいた訓練からしか生まれないような気がする。それ以外のぐちゃぐちゃし

た議論のための議論のごときものは、どこまでも不毛で私には嫌悪感しか感じられない。ただ教師の立場

に立って忖度してみれば、今はこれだけ子供の自殺が多発しているので決して口に出しては言えないであ

ろうが、どうして教師がそこまでのことをしなければならないのかという気持ちが本音としてはあると私

は思う。いじめの問題の背景に子供たちそれぞれの家庭環境が原因としてあったりすると不用意にそのよ

うな領域に踏み込んでいくと教師自身が潰されてしまうような危険を感じてしまうのではないだろうか。

また子供の心の中にまで入っていくということは我々が考える以上に負担が大きくて煩わしいものである

のかも知れない。だからどうしても教師は生徒との間に一定の線引きをして、それより内側には立ち入ら

ないようになってしまうのだと思われる。よって子供たちのことを真剣に考えてあげるような教育熱心で

優秀な教師たちが潰されてしまわないように保護、サポートするための第三者的な機関が必要なのではな

いか。現在の文部科学省を頂点とした縦割り行政の弊害もあるのだと思われる。教育分野こそ水平に捉え

て対処していくことが子供たちのために必要だと思う。あと公務員全般に共通して言えることではある

が、教師の評価システムを抜本的に作り直すべきではないのか。アルビン・トフラーが書いていたことで

あるが人が組織の中で働くモチベーションは評価と金しかないのである。新たな第三者的な機関が教師の

仕事内容や質を厳しくチェックして評価し、優秀な教師は地位と給与を引き上げてゆくような競争原理に

基づいたシステムが必要だと思う。いじめの実態についても、そのような外部機関に調査権限を持たせて

監視させればよい。もちろん子供たちの自由で伸びやかな世界に過度に権力が侵入することは望ましいこ

とではない。しかし今日のいじめによる自殺問題は放置され、その時々のおざなりな対応で長年なおざり

にされ続けてきた問題である。要するに最初の設計に問題が生じてきているのである。設計に問題がある

のであれば、設計を書き直さなければいけない。日本という国家はいろいろな分野で危機に対する反射神

経が鈍すぎる。そして目を逸らし、見ないで済ませようとする。しかし無視できないほどになってから急

に首を切られた鶏のようにばたばたと騒ぎ出す。

見ないようにする、見ないようにする、見ないようにする。

私の前には何もない。