『裁判官が日本を滅ぼす』1-2
以下は私の感想である。作者はまえがきにおいて、日本の裁判は「真実」を発見するところではなくなっ
ている、正確にいえば日本の多くの裁判官には「真実」を炙りだす能力も識見もないし、そもそも真実を
導き出そうとする意欲もないのである、と述べている。まったく、同感である。おっしゃる通りだ。私自
身、民事訴訟において裁判及び裁判官が書く判決のあまりのいい加減さに、はらわたが煮えくり返るよう
な経験をしているのでよくわかる。その上でこの痴漢事件の判決について、多少のいやみを込めて“公
正”な視点から私見を述べたい。ただし私は法律の素人であるので、もし基本的なところで勘違い、間違
いがあればお許しいただきたい。先ず第一に刑事裁判と民事裁判は、同一の事件に対するものであっても
それぞれに独立した別個のものである。よって刑事と民事の判決が必ずしも似通ったものにならなければ
いけないということにはならない。今回の痴漢事件のように刑事と民事で180度異なった結論が出たか
らといってそれだけで非常識ということにはならないのだ。具体的に説明すれば、大川は刑事裁判におい
ては、“疑わしきは罰せず”という原則によって無罪になったのであって、その確定判決だけで痴漢をし
ていないということの絶対的な証明にはなり得ないのである。よって大川が原告となって女子高生を相手
に民事で損害賠償請求する際には、大川が痴漢をしていた可能性があり得るという前提条件で審理がすす
められるのである。これが部外者の一方の目から見れば、真実とはまったく無関係におこなわれる初めに
結論ありきの不当な裁判に思えてしまうのである。裁判官に100パーセントまでとはいかなくとも70
~80%ぐらいの割合で大川が痴漢をしていないであろうという心証を与えることが出来なければ、裁判
官は大川の訴えを棄却するために、その対抗措置として大川が痴漢をしたという方向で要件事実を組み立
てていくのである。しかしそれは、裁判官が大川が痴漢をしたと本気で信じているということとは別問題
なのである。実際に裁判を経験したことがない人にはわかりにくいかも知れないが、裁判とはこういうも
のなのである。裁判所は真実よりも論理の整合性に価値を置く場なのだ。もちろん道徳的な良し悪しは別
にしての話しである。そういう意味ではこの裁判の判決は正当なものであり文句を付ける筋合いのもので
はないということになる。たとえ一般的にはわかりにくいものであっても司法という小宇宙内部では、秩
序と正義が保たれているからだ。それなら大川が背負った不幸の源はどこに原因があったのかということ
になる。単に彼が運の悪い男であったということで済ませられることなのか。この本の作者の趣旨とはず
れてゆくが、かまわずに私の考えを述べたい。大川を無罪にした刑事裁判も、大川の請求を退けた民事裁
判も一括してトータルに俯瞰して見ればあまりに女子高生サイドに偏りすぎているではないか。そもそも
刑事裁判の過程で女子高生の「指導要録」をきっかけに痴漢犯逮捕と示談による収入の履歴が発覚したこ
とが奇跡的な幸運(あるいは不幸中の幸い)と言えるのであって普通は痴漢で逮捕された時点で100%
アウトである。未成年者や女性などの“弱者”を保護するという視点は社会的には必要なことかも知れな
いが、裁判官は世間一般にわかりにくい司法世界独自の論理構造には頑なにこだわるのに、どうして道徳
的な多数派には安易に迎合するのだ。私に言わせれば“わかりにくさ”こそが閉鎖された世界で絶対的な
権威を生むためのまやかしであり、道徳的迎合は臆病さ、怠慢、堕落の何よりの表れである。司法改革と
いうことを誰が最初に言い出したのか知らないが、私はその人物を尊敬したい。徹底的に進めてもらいた
いものだ。痴漢について言えば、確かに現実に被害にあって不愉快な思いをした女性が多いであろうこと
は認める。それでも痴漢を訴えられた男の言い分など聞かなくてもよいという風潮は、明らかにファシズ
ムだ。駅員の態度にしても事実関係がはっきりわからないにも関わらず、本来敬うべき客をいきなり警察
に突き出すなんて一体何様のつもりだ。警察にしても迷惑防止条例違反程度の疑いごときで逮捕して23
日間も勾留するなんてどういう了見だ。その必要性があるのかと問いたい。そもそも鉄道会社そのもの
が、もう少し頭を使えば独自に痴漢対策を講じることが出来そうなものである。たとえば、痴漢を働いた
とされる客が容疑を認めて謝罪するならともかく決して認めようとしないのであれば、その客が身分を証
明できるものを提示し写真を撮らせることを条件に警察には通報しない。痴漢行為というのは、おそらく
は常習性の病気のようなものだと思われるので一回だけで満足してすむ類のものではないであろう。痴漢
する人間は何回も繰り返すはずである。某経済学者のようにである。だから鉄道会社はそのように対処し
て2度目以降に痴漢として通報された男に対しては警察に突き出すなり、乗車拒否をするなりすればよい
のである。簡単なことではないか。これだけで恐らく痴漢の冤罪はなくなるであろう。客の人権を守るた
めにそれぐらいの手間はかけろといいたい。地下鉄の駅構内に繰り返し流される「痴漢は犯罪です。」の
アナウンスは一体なんだ。外国人が聞いたらどのように思うのだろうかと、つい考えてしまう。この頃あ
れを聞くと、小学生時代の「下校時刻がやってきました。運動場に残っている人は早く帰りましょう。」
の校内放送が思い出されて懐かしい気持ちになるとともに何故か眠たくなってくる。日本というのは結
構、恐ろしい国である。まあ、私は混雑した電車に乗るということがめったにないので本当は個人的には
どうでもいいんだけれど。むしろ私は今、手の上をふっと吹き払った埃が姿を変えて日本の至る所で無数
の痴漢冤罪という現実が引き起こされることを夢想する。あなたやあなたが愛する誰かのように優しくて
善良なたくさんの人間がある日、痴漢に仕立て上げられて大川のような地獄の苦しみを味わえばよいので
ある。それらの苦しみの総量が一定量を越えたところで風向きは変わるのであろう。痴漢やいやがらせが
多いのは恥ずかしい社会だと思う。しかし根本から考えていかなければならない問題をファシズム的に対
処してしまうのは日本が三流国家であるということの証明ではないのか。私は、はっきり言って多数派に
迎合しているだけで自分のことを善良だとか正義だと思い込んでいる人間がとても嫌いです。