龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

きつねのでんわボックス

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いろいろと事情があって私は3年ほど前から妻子と別居している。しかし6歳の息子とはよく会ってい

る。私が住んでいる実家で週に2回、仕事が終わってから息子に勉強を教えているのだ。キャンセルされ

ることもあるが月に2回は土曜日に泊まりにくることになっている。だから現在のところは同居している

親子以上に父と子の絆を保てていると自負している。でも近い将来はどうなるかわからない。父親として

は危うく微妙な状況にあることは事実だ。しかし先のことを考えて憂いてもしようがないではないか。全

ての人間は今、この瞬間にそれぞれの運命を開花させているに過ぎない。不運も幸運もその花の姿を愛で

る以外に方法はないのだ。


息子に勉強を教えると言っても、今年から小学校入学なので大したものではない。公文式の学習帳を使っ

て足し算や引き算、九九、簡単な漢字を教えている程度だ。最初に必ず息子に本を音読させることにして

いる。教材は大手書店で子供向きの本を適当に選んで買ってきたもので、今読ませている本は『きつねの

でんわボックス』という童話だ。それで、けちを付けるつもりはないが正直なところ私はこの童話の内容

が不満なのである。買ってから一読して気づいたことゆえ手遅れだったのだが、内容は以下の通りであ

る。


山奥に、母さん狐と子狐(男の子)が住んでいました。父さん狐は子狐が生まれるとすぐ病気で死んでし

まいました。でも母さん狐は日に日に大きくなり、どんどんかわいらしくなる、ぼうやがいるから悲しく

はありませんでした。でもある日、秋の空気が漂い始めたころに子狐の様子は変わり元気がなくなってき

ました。母さん狐は心配になって子狐を抱いて暖め続けましたが元気になりません。子狐は母さん狐の胸

のなかで震え続け、とうとうある朝、体が冷たくなって死んでしまいました。母さん狐は毎日、涙で体が

溶けてしまうほど泣きました。狐はやっとのことで「あの子のおかげで楽しいことがいっぱいあったんだ

から。」と元気を出そうと決心し歩き出しました。そして山のふもとにある電話ボックスのあかりを見ま

した。電話ボックスの中には小さな人間の男の子がいて、「かあさん!」と受話器に話しかけるはずんだ

声が聞えます。狐は自分の死んだぼうやを見るような思いがしました。立ち去る男の子のうしろで、しっ

ぽが、ゆらんとゆれたような気がしました。男の子は母親と話すために次の日もその電話ボックスにやっ

てくるようです。狐はその男の子ともう一度会うために山をおりて、その電話ボックスの傍まできまし

た。ついにやってきた男の子が電話で母親に話しかける声が聞えます。男の子は「母さん、会いたいな」

と言いました。狐は、ぼうやが生きていて言った言葉のように思え、はっとしました。狐は思わず「え

え、母さんも会いたいわ。」と言いました。それからも男の子は、電話ボックスの明かりがつくころにや

ってきました。狐も夕暮れになると山を下りて男の子の話に耳を傾けるようになりました。男の子は電話

ボックスのすぐ近くで、おじいちゃんと二人暮しをしています。おじいちゃんは昼間あちこちの工事現場

で働いていて、その間男の子はどこかに預けられているらしいです。そして男の子のお母さんは病気で遠

い町の病院に入院しているようでした。ある晩、山から下りてきた狐ははっとしました。電話ボックスに

明かりがついていないのです。その公衆電話は古くて、かける人も少ないので取り外してしまうことにな

ったようだと車でやってきた人が話す声が聞えました。狐はびっくりしました。男の子が毎日、母親と話

すのを楽しみにしているのに電話が使えなくなるとかわいそうだわ。狐の目の中には、今にも泣きそうな

男の子の顔が浮かんできました。そしてついに男の子がやってくる足音が聞えます。狐は男の子を抱くよ

うにそっと前足を伸ばしました。するとびっくりしたことに狐はいつの間にか、立ち上がったまま電話ボ

ックスに変わっていたのです。やってきた男の子は電話ボックスが二つあるのにびっくりしました。狐の

電話ボックスには優しい明かりがぽっとともっていました。男の子は迷わず、狐の電話ボックスに飛び込

みました。男の子が受話器を取るとコスモスのような手のひらから狐に暖かさが伝わってきました。狐は

男の子と話しをします。男の子は、おじいちゃんの今度の仕事は母さんのいる町だからもう電話しなくっ

てもいい。毎日母さんに会えるんだよ、と告げます。狐はその話しを聞いて、もう男の子に会えなくなる

ので頭がくらくらしました。男の子と話し終えた後もしおれた花のようにうなだれてしまいます。冷たい

風が吹いてきて狐はそばにある、取り外される予定の電話ボックスの中に入りました。不思議なことに消

えていた電話ボックスの明かりが震えるようにゆっくりともり始めました。電話ボックスの中はふわっと

暖かでした。狐は受話器を外し、死んだぼうやを相手に話しかけます。でも電話の向こうはしいんと静か

で誰の声も聞えませんでした。でも狐は、私のぼうやは私の胸の中にいつも一緒にいるのだからもう平気

よ、とがっかりはしませんでした。電話ボックスはきつねのために最後の力で明かりをともしていたので

す。(金の星社、戸田和代)


以上のような内容だ。悲しくも心温まる話しである。ではどこが気に入らないか、あえて言うまでもない

ことだが男の子の父親が登場していないのである。男の子は母子家庭のようだ。何も母子家庭が悪いとい

うのではない。しかし父親についての説明がまったくなくて、無視されているのはちょっと不自然じゃな

いのか。父さん狐は子狐が生まれてすぐ病気で死にました、ということになっている。なら、どうして人

間の父親を無視するのだ。せめて男の子の父さんも病気で死にましたとか、家出して行方がわかりません

と説明してあげるぐらいは、父親という存在に対する思いやりがあってもいいのではないか。要するに、

この作者は家庭の中に父親は必要ありませんよ、ということを言いたいのかなどと訝ってしまう。もしそ

うなら、この童話は子供たちに対するサブリミナル効果のある危険な洗脳作品だ。けしからん、などと考

えながらも仕方なく私は息子にこの童話を音読させる。しかし困ったことに、子供というものはあるいは

私の息子はこういう話しがとても好きなのだ。もうそろそろ止めろと言っても、いやもっと読むと言って

聞かない。腹立たしいというか、やるせないというか鬱屈した気分になるのである。


このささやかな話しは、本来ここで終わるべきはずのものであった。しかしその後、10年ほど前に読ん

中沢新一氏の『悪党的思考』(平凡社)をたまたま再読してみて、この童話との関連で思い当たること

があった。密教のダキニ(荼吉尼)すなわち狐と女性性の関係について述べられている箇所があって私は

直感的にわかってしまった(ような気になった。)あの童話の母狐はダキニもしくはお稲荷様なのであ

る。ご利益も大きいが粗末に扱うと祟られもする恐ろしい神様なのだ。童話作者は意識的にか無意識でか

わからないが、深層において呪術的な力に触れているのだ。うーん、ちょっと恐ろしい。童話というもの

は、なかなか侮れない。本当に油断も隙もない。