龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

ボタニカル・ライフ 植物生活

イメージ 1


庭のない都会暮らしのベランダで植物生活を楽しむ者を「ベランダー」と命名し、限られた狭い空間で苦

心しながら、自らの流儀で鉢植え植物たちに惜しみなく愛情を注ぎ込み続ける作者はどこかハードボイル

ド的である。庭を持つ資本主義的ブルジョア階級の「ガーデナー」に対して対抗心を持つことも卑屈にな

ることもなく、「ベランダー」としての誇りを持ちつつひたすら植物を観察し、いとおしむ作者の態度か

らは植物というささやかな生命に対する尊敬と責任の念が感じられ、共感以上にちょっとした感動があ

る。山川草木悉有仏性という言葉が頭に浮かぶ。

私もここ3ヶ月ほど、サボテンにはまってしまって毎日サボテンのことばかり考えている。休日にサボテ

ン専門店に行くことが待ち遠しい。天気が良ければ、何よりも私が栽培しているサボテンたちのことを思

って幸せな気分になってしまう。このエッセイ集を読んで、作者のいとうせいこう氏はハードボイルド的

であると同時に植物的だと感じた。では植物的とはどういう意味なのか。生命体としての植物の生存様式

の特徴は、“適応”である。その地に根付き土壌や気温などの不可避的環境に自らを適応させてゆくこと

が、植物にとって“生きる”ということである。だから本質的に受身であるし協調的であるとも言える。

植物にとって自らを取り巻く環境に対して異物であるということは、“死”以外の何ものを意味するもの

ではないのだから。植物の“賢さ”は環境の変化を察知する鋭さである。決して環境を変えようなどとは

考えもしない。だから過激さはないが見かけのたおやかさや大人しさの奥にとてもクレバーな知性が秘め

られている。女性的であるともいえる。しかし環境の変化が自らの適応能力を超えた時にはあっさりと枯

れてしまう。全ての植物はとことん適応してゆくしたたかさとしぶとさを持ちながらも、いざという時に

はいつでも死んで見せましょうというような覚悟と潔さがある。全ての植物の美しさは、この死に対する

覚悟と生に対する執着のなさにこそあるのではないのだろうか。のみならず植物には死を意識した時に、

子孫を残すために花を咲かせたり実を成らせるようないじらしさがある。植物的なるものには元々ハード

ボイルドに通じるものがあるのだ。植物に比べて動物は違う。動物は移動する。空を飛び、大地を駆け、

水の中を泳ぎながら、餌やパートナーを探し求めて場所を移動してゆく。それが動物という生命の本質で

ある。そして定住した地において時に命をかけて戦う。死ぬべき運命にありながら死を恐れ、生に執着し

あがき続ける。人間を含め動物の生命とはそのように作られているのだ。そして人間を含め動物は“政治

的”である。猿の群れではボスがいて、メスを独り占めする。序列があって餌の配分などの優先順位が決

まっていたりする。蜂や蟻などの集団生活をする昆虫でも同じである。職能分担が決まっている。動物は

それぞれの進化の途上において政治に通ずるものを有しているのだ。それに比べて植物は政治的ではな

い。このエッセイ集を読んでいて何故かそのようなことを感じた。いとうさんせいこうさんが植物に魅か

れる理由ももしかすれば、そのようなところにあるのではないのか。もちろんこの本だけではわからない

が。植物生命のエッセンスは政治の匂いがしないところにこそあるように思える。私も植物が好きだ。政

治には元々興味がない。でも私の場合、何かを書けば、表現しようとすればそこに政治の匂いが漂ってし

まうのはなぜなのか。美しいものを見て素直に美しいと思う気持ちが、どこでどう捻じ曲がって政治的な

るものに結びついてゆくのだろうか。私は日本という国家そのものを一つの鉢植え植物のように想像して

しまう。この国は根詰まりしてしまっているのだ。新しい根が生え伸びてゆくスペースがないのである。

一旦株を鉢からすぽっと抜いて、腐った奴ら(根)をばっさり切って整理し、新しい用土に植え替えてや

れば放っておいてもまた美しい花を咲かせてくれると思うのだが。そんな単純なものではないと、小難し

い屁理屈をこねたがる人間はみな腐った根だ。

いとうさんよ、そうは思わないかい。

『ボタニカル・ライフ 植物生活』 新潮文庫  いとうせいこう