生きること、書くこと 58
“冤罪”が発生する社会的背景というものについて考えてみたい。富山県強姦事件で誤認逮捕された男性
はアリバイがあるにもかかわらず、被害女性2名が面通しの結果「この人だと思う」あるいは「この人
だ」と証言したために犯人にされてしまったのである。
この手の事件で被害者の記憶に基づく証言が重要視されるのは当然だが、加害者を特定するような決定的
な証拠がおざなりにされたり、容疑者のアリバイを無視して無理やり自白を強要するということは捜査の
怠慢と言うよりも本質的には捜査能力の低下に原因があるといえるのではないだろうか。
その背景は痴漢やDVなどの犯罪とは言えないような軽微な事件で、女性の言い分のみが無条件に認めら
れ男性の主張は無視しても構わないというような暗黙の了解が社会構造に強力にコード化されてしまって
いるところに原因があると思われる。
痴漢などの迷惑行為を女性の言い分のみに基づいて、“犯罪”として強権的に取り締まっていると、強姦
などの本当の犯罪に際しても痴漢やDVなどと同じような取調べになるのは当然とも言えるのである。
なぜなら冤罪の構造も権力内部で引き継がれ一体化してしまうからである。そして社会秩序を維持するた
めの肝心の“捜査能力”が劣化してゆくのである。
このような社会構造に私は権威あるメディアも加担していて大いに責任があると考える。たとえばDV法
に関しても、法律の大原則であるはずの公平性の視点が明らかに欠如している悪法であると一部で抗議集
会などが開かれていたがメディアは一切、報じようとしない。
そのような動きが燎原の火のように拡がることを何よりも恐れているからである。権威あるメディアが社
会正義を担保していると考えるのは明らかに間違っている。見せ掛けの正義と民主主義をこねくり回しな
がら、権威や収益システムを死守しようとしているだけではないのか。
私が既存メディアの解体、再編が必要だと考えるのはこのような理由によってである。つまらない法律ば
かりたくさん作って世の中を滅茶苦茶にするのであれば、メディア資本を解体する法律を作るべきだと私
は思う。