生きること、書くこと 73
本は買って棚に飾って置くものではなく読まなければならない。
『「野生」の哲学―生きぬく力を取り戻す』(町田宗鳳著、ちくま新書)は、書店で私に買われてから5
年程経ってようやく読まれることとなった。書評を書くには遅きに失した感があるが、私には常に読むべ
き価値のあるものを選択する能力はあるであろうことを確認できたと言っておく。
本書のテーマは「野生を取り戻す」ことであり、「自己の本然的生命力としての<野生>を回復し、より
深い次元からの「生の明るさ」を獲得するには、どうすればよいのか、」を考えることにある。
ニーチェの哲学にもつながるような内容は刺激的であると同時に、いかにも閉塞感の漂う現代日本に相応
しいものであるとも言える。しかし私は著者の考えに必ずしも全面的に賛成できるものではない。あえて
同書の内容に私なりの批判を加えることによって、「野生」についての思考を深めることを試みてみた
い。
まず著者の経歴が際立っていることを述べなければならない。幼い頃に家を飛び出して20年間も禅寺で
肉体労働である作務に明け暮れた後、30歳をゆうに越えてからアメリカ東部に渡り、掃除夫や運転手の
仕事をしながら学究生活を送るようになった。そしてアメリカ東部の大学で14年間過ごした後、シンガ
ポールに移って2年半教鞭をとり、日本には2000年の暮れに帰国した。海外の一人旅が趣味でもある
らしい。著者のこれまでの半生はまさに“野生的”である。また自ら“肉体主義者”であることを自負し
ておられるだけあって、頭の中で考えられた机上の空論ではない説得力がある。
しかし同書の内容を総括して言えることは、著者の「野生」という言葉に対する使い方や定義が曖昧なま
ま広範囲に用いられており、軽く読む程度には気にならないのであろうが、少し深く考えて見るとどうも
しっくりと来ない部分があるのである。かいつまんで例示する。
たとえば著者は、根源的自然としての<狂い>について言及している。
「人間性の最奥に潜む生命感情を<狂い>と呼び、それに何らかの形で触れることが、宗教体験の本質に
ほかならないと論じた。」
著者の別の著作である『<狂い>と信仰―狂わなければ救われない』(PHP新書)を引用しながら「悟
り」と「狂い」は紙一重であり、「狂い」の体験なしには「救い」もまた存在しないと説く。著者の論ず
る<野生>はこの<狂い>と強いつながりをもつものであるということである。
「<狂い>には無意識の闇の中に姿なくわだかまる怪物のような不気味さが漂うが、その得体の知れない
代物が、ある程度、意識の光を浴びるところまで浮上してきて、もっと直接的にわれわれの人格やライフ
スタイルに関わりをもち始めれば、それが<野生>となる。つまり混沌とした根源的生命が顕在化あるい
は意識化したものが、私のいう<野生>なのである。」
またロゴス(理知)とパトス(情念)の関係についての考察においては、デカルトの「我思う、ゆえに我
あり」の言葉の背後には、感情や感覚など身体的な要素を、理知的思惟や精神の自立を妨げるものとし
て、極力排除しようとした基本思想があり、それはロゴス(理知)の過大評価であり、生命活動としての
身体性の役割がまったく無視されていると批判する。
デカルトは、「ロゴスを偏重するあまり、人間という自然現象が必然的に抱える曖昧な要素が、ばっさり
と切り捨てられているのである。人間性の<狂い>や<野生>が抹殺されたところに、果たして全人的な
人格が成立するのか、私としては大いに疑問とするところである。」
「情念としてのパトスが疎外されてしまうと、合理的な思考を支えているロゴスも活力を失ってしまうわ
けである。」
「いわばロゴスとパトスは夫婦関係にあるといってもよい。~(略)~いささかロゴスの亭主関白気味で
あった文明社会に、押さえ込まれていたパトスが失地回復をして、ロゴスとの間に健全なバランスを築き
あげることが不可欠なのである。そしてロゴスとパトスが激しくぶつかり合うところに、<野生>という
新しい知のパラダイムが止揚してくるわけである。」
言わんとするところは良くわかるのであるが、はたしてそうであろうか。たとえは悪いかもしれないが、
麻原彰晃が逮捕前のTV出演時に語った言葉で私の記憶に残っているものがある。
麻原は「ある程度の思考力がなければ悟れない」と言ったのである。私はそのセリフを聞いたときに、こ
の人は“わかっている”んだなと思ってしまった。“悟り”とは思考力で成就されるものではないが、思
考が出発点となるためにある程度の思考力がなければ始まらないのである。それで思考を通じて日常的思
考を支配する論理を突き抜けたところにある世界とは、より高次な論理構造なのだと私は思う。そのプロ
セスはあまりに困難で深い苦悩に満ちている。道を歩む者は必ず魔境に陥り悪魔と出会うことになる。よ
って精神だけでなく生身の肉体の力をも総動員させて立ち向かわなければ、まさに“狂って”しまうの
だ。
オウム真理教と言えば、ヨガの厳しい修行などで身体性を重視する体育会系的なイメージが一般的にはあ
ったのかも知れないが、肉体と精神を対等なパートナーとして見るような視座はなかったのではないかと
私は考える。少なくとも宗教的な視点で見る限り、肉体とは道具なのではないか。