龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

生きること、書くこと138


“お釣り”つながりの別の話しであるが、私はこれまでの人生でつり銭で揉めたことが一度だけある。そ

のことについて書くことにしよう。

もう10年以上前であるが、ある本屋で何かの雑誌を買った時のことであった。私が住んでいる町には大

きな書店がない。隣町にはあるが、私が本を買う時は大体、難波か東梅田まで出かけてジュンク堂や旭屋

書店に行くことが多い。最近はもっぱら“アマゾン”を利用している。元々私は、小さな本屋で本や雑誌

を買うことは滅多にない。しかし、その時は何を買ったのかは忘れてしまったが、急ぎで欲しい雑誌があ

って近くの駅前にある小さな書店に自転車で買いに行ったのであった。広さ7~8坪くらいの小さな店

で、中央にあるレジ場には老婆が座っていた。私は何百円かの雑誌を持ってその老婆に渡し、財布の中を

見ると1万円札しかなかったので1万円渡したのである。そこからが大変であった。信じられないかも知

れないが、今から書くことは全て事実である。

その老婆はレジスターからおもむろに何枚かの千円札を取り出すと、何ともゆっくりした非現実的とも言

えるような遅い動作で1枚、1枚丁寧に数えるのである。途中で、この婆さん寝ているのじゃないかと本

気で思ったほどである。それでやっと数え終わったかと思うと、何のつもりかレジスターからもう1枚の

千円札を取り出して束に加え、また1から同じようなスピードで数え始めた。まるで念仏を唱えている姿

のように見えた。札をめくるというよりも撫でているのである。それで2回目が終わってやれやれと思っ

ていると、札を1枚レジに戻して、また1から3度目の読み直しが始まったのでぎょっとした。私は呆気

にとられたが、お年寄りがつり銭を間違えてはならないと一生懸命数えているのだからと思うと、早くし

てくれとは言えなかった。それで結局、2分近く、あるいはそれ以上かかったのではないだろうか。何か

の儀式かまじないのような札読みが終わって、ほいという感じで目の前につり銭が出されたので私はその

まま財布に突っ込んで帰宅の途についたのであった。

それで店を出て自転車で100メートル程行ったところで、もしやと不安が胸をよぎった。それで財布の

中を改めてみて、“やられた”と思った。千円札が8枚しかないのである。あれだけ時間をかけて読み間

違えるとは、受け取る瞬間にはまさか思いもよらなかった。どうしようかと迷ったが、このままで済ます

のは、あまりに気持ち悪い。確かに受け取った時に確認しなかったのは私の落度であるから返してもらう

ことは難しいであろうが、“道義的”に一言、言うべきだと考えたのである。千円ぐらい別にかまわない

のであるが、私にとって金の問題であって金の問題ではなかったのである。それが千円ではなく1万円で

あっても同じことであった。それで本屋に引き返した。店内に老婆の息子と思しき店主がいた。息子とい

っても、60歳位の頭がすっかり禿げ上がった男である。私は店主に経緯を説明して、あのような金の数

え方をして読み間違えるのは、わざととは言わないまでも問題があると言ったのである。老婆が2分もか

けて札を読み、1枚少なく間違えたのは厳然とした事実であった。その場で改めなかったのは私の落度で

あるが、あのような状況で再度、確認する人間はよほどの暇人か変人である。普通の人間は、店を信用す

るものである。但し、私は老婆が故意に千円ちょろまかしたのだとは考えなかった。なぜならその本屋は

小さくとも地元では老舗でそれなりに歴史がある店として通っていたので、つり銭詐欺のようなことをす

る訳がないからである。

私にとっては本質的には金の問題でなかったのだが、店主にとっては純粋に金の問題でしかなかったよう

であった。僅かでも店の責任を認めるようなことを言えば、千円損すると考えたようだ。私は、仮に店主



「うちの母親がえらいお待たせしてすみませんでしたな。そやけどほんまに間違うたんか、どうかという

ことは、やっぱりその場で言うてもらわんことにはどないもしようおまへん。そやから千円お渡しすると

いうわけにはいきませんが、ご容赦くださいな。」

というような態度であれば黙って引き下がったのである。しかし店主は、釣りを数えるのが遅いのは年寄

りやからしようがない、その場で確認しなかったあんたが悪い、というように一方的に私に非があるよう

な言い方をしたので、私としても引くに引けなくなってしまったのである。声を荒げるようなことはなか

ったが、その場で膠着的な口論が続いた。

それで御当人の老婆はというと、私と店主が言い合っているすぐ横のレジ前に相変わらずちょこんと座っ

ていて、私には関係ありませんみたいな顔で何の反応も示さないである。かと言って、ボケている風にも

見えなかった。

そうこうする内に店主の嫁と思しき女性が現れた。私と店主が口論しているのを見て誰かが呼びに行った

のかも知れない。店主の嫁は登場するなり、静かな口調ながら、

「お客さんに対して、そんなことを言うもんじゃありません。」

とぴしゃりと言った。それでそれ以上何も言おうとせず、私に一言

「すみませんでした。」と謝って、千円返してくれたのである。

店主の男は何も言わずにプイと横を向いて、店を出てどこかに行ってしまった。老婆は無表情に前を向い

て黙ったままである。そういうあらましの一日であった。

後日その日のことを振り返ってみて、結末が図らずも浮き彫りにした本屋の家庭内、相関関係のことを思

った。店主の嫁と母親との確執であるとか、店主と妻の力関係とか、そういったどこにでもあるような人

間模様についてである。しかし、私にはそれ以上にその本屋の経営上の問題が接客に影を落としているよ

うに思われた。その本屋は、小さな店内の何箇所かに万引き防止用のカメラが設置されていて、レジに置

かれたモニターには4分割された画像が常時、映し出されていた。売り上げの金額が小さいから、その本

屋にとっては1冊の万引きや、つり銭間違い(本屋が損する間違い)のダメージが大きすぎるのであろ

う。

老婆は普段から息子か嫁に絶対につり銭を間違えるなと、繰り返しくどくどと言われていたのかも知れな

い。それであのような札の数え方になり、無意識的に客が損して店が得するような間違いをしでかす心理

状態に追いやられていたのかも知れない。もしそうであれば客にとってはいい迷惑である。

つり銭の間違いがなかったとしても、あのような狭い店内でカメラに監視されるのは気分のいいものでは

ない。小さな書店では、買うつもりで本を手にとって見ていてもいやな顔をされることがある。ジュンク

堂が客の“座り読み”のために机と椅子を用意しているのとは同じ商品を扱っていても、まったくの別世

界である。

それで私はその日以降、その駅前の本屋だけでなく家族経営の小さな書店では絶対に買わないと固く心を

決めたのであった。それでは小さな本屋さんが可哀想だとか、そんな事情は私には何の関係もない。私は

平均以上に活字に対して親和性が高い人間である。また決して万引きなどしない人間でもある。要するに

本屋さんにとって私は、自分で言うのも何であるがかなり良質の客であるはずなのだ。確かに万引きの被

害は大きいのかも知れないが、経営上の悪循環は良質の客をも遠ざける。またいくら店の売り上げが小さ

くても、客の私がまるで釣銭詐欺をしているように受け取られかねない申告をしなければならないこと

は、不愉快極まりないことであった。

それで実際にその後10年以上にわたって古書店以外の小さな本屋には立ち入ったことがない。神経質な

目で監視されている空間は鈍感でない人間にとって精神衛生上好ましくはないし、そもそも買いたいと思

えるようなろくな本など置いていないからである。くだらない低俗なタレント本のようなものばかりだ。

仮に読みたい本があったとしても、そのような空間では書物に蔵された言葉の魂(言霊)が穢されている

ようにまで思えてきて、穢れた言葉の本に触れたくないとまで私は零細書店に対して嫌悪感を抱くように

なったのである。まあ私も少し極端なところがあるのかも知れないが。ところが古書店の雰囲気は私は好

きなのだ。静謐な空間に言葉と文字の精霊が宿っているようで、その場にいるだけで心が癒されるのであ

る。活字離れという人がいるが、不思議と町の古本屋は潰れないものなのである。

結局のところ自分の波長と合わない場所に入ってしまうと、そこは自分の居場所ではないということを再

認識させられるような事件が形而上的に発生しそうで恐ろしくもある。“客筋”とはおそらくそういう風

に誰かを遠ざけ、誰かを呼び込みながら決まってゆくものなのであろう。

人づてに聞いたところによると、本屋さんの老婆はその2~3年後に亡くなったようである。また、その

数年後にその老舗の小さな本屋は営業権を売却して経営者が代わってしまった。新しい経営者は以前の店

名のままで何年間か書店を営んでいたが、今から半年ほど前に店を閉めてしまったようである。今は貸し

店舗になっていて、2~3日前に前を通ったところ店内はすっかり空の状態で店前で野菜が売られてい

た。

本よりも野菜、今やそういう時代である。 その野菜を何気なく見ていると、10年前の不愉快なできご

とがまざまざと鮮やかに蘇ってきたのであった。