龍のひげ’s blog

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原作『告白』について

前回は、中島哲也監督の映画『告白』について書いたのだが、今回は、原作『告白』(作者、湊かなえ双葉文庫)についての私なりの感想を述べることにする。この小説を読み終えて、冷静に考えてみるに、作品のテーマがわかりにくいところがある。誰が悪いのか、というレベルの問題でないことは明らかであるが、敢えて、それではこの作品の登場人物中、誰が一番、心を病んでいるのかと問いかければ、それは女教師の森口悠子である。生徒に自分の娘を殺された真相を知っていながら、警察が事故扱いしたことを蒸し返そうとはしない。その理由は、「教師には、子供たちを守る義務がある。」などと、いかにも“聖職者っぽい”ことを言いながら、一方で自分なりの方法で殺害に関与した少年AとBに復讐しようとする。その方法が、エイズに感染して死を間近に控えているパートナー(娘の父親)の血を牛乳に注入してAとBに飲ませ(実際には、未遂に終わったが)、それを生徒全員の前で発表するということである。第一章の“聖職者”は、この衝撃的な“告白”で一方的に締め括られる。
第一章における、我が子を殺された女教師、森口悠子の狂気、それがこの『告白』という小説のエッセンスでありまた全てのはずなのだ。ところが第二章から第五章までにおいて、生徒AやB及び彼らの家庭環境が描かれることによって、話しは横に逸れ、視点が変わる。読み手の印象からすれば、まるでグラスに水を注がれるかのように森口悠子の異常性は拡散され、話しの本筋が見え難くなる。森口悠子に同情しながら読み進めた人も多かったのであろうが、私は今から考えれば、作者によってミスリードされ誤魔化されていたような気がしてならない。そして、最終章の第六章、“伝道者”で、森口悠子は、Aが作った爆弾でAが心から愛する母親を殺害させることによって、完全なる復讐を成就することとなる。第一章の狂気に回帰するのである。ここでも第一章と同じように、森口悠子は一人で一方的に語りかけることによって幕を閉じることとなる。
森口悠子は狂人である。しかし、その狂気が見え難い。むしろ極めて真っ当、かつ正義の人であるかのようにも一見すると思えてしまう。狂人走れば不狂人も走る、だ。それが、小説『告白』の本当のテーマなのではないかと私は思うのであるが、作者の湊かなえさんは、意図的なのか、あるいは書いている内に自然にそうなってしまったのか私にはわからないが、その本当の(あるいは裏のと言うべきか)テーマに読者が行き着かないような書き方をしているのである。それで、表面的には“母性”がテーマの作品のようになってしまっている。しかし、この小説が、もし本当に“母性”をテーマにして書かれたものであるなら、いかにも陳腐で空虚な物語に過ぎない。
おそらく小説『告白』は“母性”を隠れ蓑に、“教師と言う名の病理”を描いているのである。たとえ作者がそのように自覚していなくても、である。