龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

我々の認識が全て 3

今年の5月上旬であったから3ヶ月ほど前のことなのだが、大阪、十三(ジュウソウ)にある第七劇場という名のマイナーな映画館で『隣の家の少女』という作品が上映されることになり、私はその映画を見るに当たってジャック・ケッチャム原作の小説(『隣の家の少女』扶桑社ミステリー)をアマゾンで買って読むこととなった。この小説は、一般的な知名度はともかく一部の人々の間では悪魔的な内容の作品として伝説化されているほどで、本の帯には仰々しくも「心臓の弱い人は決して読むな」などとあざとくも思えるキャッチコピーが付されていた。結論を言えば、映画の方は単に映像化しましたというほどのレベルで取り立てて語るべきものではなかったが、原作は読書中に沈うつな気分に陥る度合いと読後感の後味の悪さなどのインパクトで評価すれば、広告に偽りなしと言うべきか、まさに一級品であった。
これは児童虐待についての話しである。概略を述べれば、小説『隣の家の少女』は、41歳の主人公デイヴィッドが12歳当時に体験したある事件を回顧して語るスタイルが取られている。1958年のある日、デイヴィッドの隣の家に両親を交通事故でなくした姉妹が引き取られてやってきた。メグとその妹のスーザンである。姉妹は事故を起こした車に同乗していたのだが奇跡的に助かったものである。姉のメグは事故の傷跡を身体に残しているものの陽気で活力に溢れた美少女であった。妹のスーザンは両腕、両脚に補助具をつけての生活を余儀なくされた9歳の女の子であった。スーザンは事故時、全身骨折で生きていたのが不思議と思われるほどのひどい状態から、未だ完全に回復しておらず毎日解熱剤と抗生物質を飲んでいた。また活発な姉とは対照的に性格的に大人しく影のような存在であった。メグとスーザン姉妹が引き取られたチャンドラー家は、母親ルースと3人の息子たちの4人家族で、3人の息子、ドニー、ウィリー、ウーファーは、隣に住むデイヴィッドの遊び仲間でもあった。デイヴィッドは年上の美しい少女メグを一目見るなり心を奪われた。当初デイヴィッドは、3兄弟にメグも加えて子供らしく一緒に遊んでいたのだが、次第にルース家内の様相が変わっていくことを知ることとなる。母親ルースが、些細なことに理由をつけて姉妹に体罰を加えることとなるのだ。ある日メグはデイヴィッドに、なぜあの人たちが私を嫌うのかわからないと打ち明ける。気に入られようとありとあらゆることをしているのに、また理解してもらえるように心がけているのに、あの人たちは聞こうともしない、まるで私を嫌いたがっているみたいに、そのほうが都合がいいみたいに、と。デイヴィッドは困惑するばかりであった。また、お腹を空かせ切ったメグがデイヴィッドにお金を貸して欲しいと頼みにくることもあった。家で食事を与えられていないのだ。その後、3人の息子たちは母親ルースの指揮の下でメグとスーザンを苛め続けることとなる。
そしてついにメグが反撃に出た。7月4日の独立記念日、町の人間が皆、花火見物に出かけている日に、警備に当たっていた警官にメグが告げ口したのだ。しかし警官は取り合ってくれなかった。それは、彼女の権利だと思う、いまは、ミズ・チャンドラーをママだと思わなければならない、と。
その場面をルースの長男であるドニーとデイヴィッドは目撃していた。また翌日、その警官がメグの様子を伺いにルースの家にやってくることとなった。その日以降、メグがルースや兄弟たちを裏切ったことによって、メグに対する虐待行為が一層エスカレートしてゆくことになる。
ルースの元夫が作った地下の核シェルター(フルシチョフケネディに「目にもの見せてやる」と喧嘩を売った頃のこと)内に、メグは天井の梁に打ち付けられた釘から垂らされたロープに両手を縛り付けられて、裸で監禁、放置される。ルースの息子たちはメグの美しい体に触ろうとするが、ルースが許さない。
あんたたちには、その娘にさわってほしくない、こういう娘は不潔なんだ、と。
その現場に、メグの妹、スーザンとデイヴィッドもいたがどうすることも出来なかった。ルースはメグに言った、そうやって吊るされるのは、あんたじゃなくてあんたの妹かもしれないってこと。一方、デイヴィッドは心に痛みを感じながらもその光景を見ていたいという欲望に抗うことが出来なかったのだ。その後、メグはトイレに行くことも許されず、垂れ流しの屈辱を与えられることになる。ようやく良心の呵責に耐えかねたデイヴィッドが意を決して、メグの救出へと向かう。しかしメグは、身体の不自由な妹スーザンも一緒に連れて逃げようとしたがために捕まってしまう。結局、地下室に連れ戻されたメグは、ルースの許可の下、3兄弟の一人にレイプされた挙句、さんざん嬲られて殺されてしまうこととなるのである。
そういう事件の記憶をデイヴィッドは数十年経った後も悪夢のトラウマのごとく、苦痛の因果応報の輪から抜け出せずに語るのだ。
“苦痛とはなにか、知ってるつもりになっていないだろうか?”
小説『隣の家の少女』の冒頭の一文である。成人後のデイヴィッドが二度の悲惨な結婚生活の後に離婚した妻たちは、苦痛とはなにか、知っているようで本当は何もわかっていないと言っている。苦痛は外から内へ作用することもある、とデイヴィッドは語る。なにかを見ることによって苦痛を覚えることもある、それこそ、もっとも残酷で、もっとも純粋な苦痛だ。苦痛を目にし、苦痛をとりいれると、人は苦痛になってしまう。わたしは長い間、苦痛とともに生きてきたのだ、と。
要するに肉体に完結する苦痛や、精神的、あるいは観念的な苦痛は、いずれ忘れ去られる苦痛であって、本物の苦痛とは何かを“見る”ことによって自らの生存そのものが呪われし苦痛となることである、と言うことだ。私は、冒頭のこの苦痛に関する一文が、『隣の家の少女』という作品全体に深みと説得力を持たせているように考えるものである。