龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

我々の認識が全て 5

さてそれで、結局私が何を言いたかったのか忘れてしまいそうになるが、神学論はともかくとして私のようなメンタリティーはなかなか生き難いものであることは確かだ。それはこれまでの私の半生を振り返ってもまさにそうである。先ず他者に理解されがたいし、誤解されることも多かった。心の底で何を考えてるのかわからないような人間に見られることも少なくはなかった。また自分がどういう人間であるか他者に伝えるのも非常に難しい問題であった。自分は他者と根本的に異なっているように思えたから、深い部分で誰かとコミュニケートすることは常に危険を意味していた。よって疎外感や孤独は常に私に付きまとっていた。20歳代半ばの頃までは私という存在は呪われているのだと心の底から本気で思っていた。泥沼のような焦燥感と苦悩の中で私は生きていたのである。それで25歳ぐらいの頃だったと思うが、一念発起して死を覚悟するぐらいの決意で自分と世界との関係性について徹底的に思考し続けたのである。それは自らの苦悩の正体を探る命がけの戦いであった。街中を歩いていても1本の街路樹や1台の車と擦れ違ってすら、その木や車との一期一会の関係性の意味について思念し続けた。そういうことを四六時中、延々と数ヶ月も続けているといつの間にか私は突き抜けていたのである。文字通り目の前の世界と実在が、ぐにゃっと揺らいだ。身の回りに存在するあらゆる物質の自明性が消滅したが、神の実在だけは目の前にある灰皿のごとく疑いようがないものに感じられた。その時には不思議なことがたくさんあった。共時性というか、心で思ったことがふと目の前に現れることが明らかに偶然の域を超えて多かったのである。私はそのような状態を特に恐ろしいものとは思わなかったが、これでは到底、現実生活に適応できないと考えた。それでそれ以降はそのような超越的な感覚を日々薄めていくように意識して生きてきた。もちろんそのような体験を誰か人に言ったこともまったくなかった。今、思い返せば結局のところ良い悪いは別にして、私の魂には元々そのような素地があったのである。
先に書いた、オウムの事件が私の心と何らかの関連があったのではないかと思えてしまう理由もこれでご理解いただけるのではないであろうか。過去のそのような特異な体験を私が必ずしも肯定的に考えていないことは、これまで20年以上誰にも他言してこなかったことからも明らかであると言える。肯定的に考えていないだけではなく私はそういうことを言いたくない心理特性が極めて強い人間である。それはたとえば、オウムの信者たちと同類レベルに見られたくないという気持ちもあるであろうし、客観的に自分で自分を認めていない部分もある。たとえば小説『隣の家の少女』の冒頭の一文に戻るが、
“苦痛とはなにか、知ってるつもりになっていないだろうか?”
とは、私の魂に対して向けられた言葉であるように感じられる。いや、感じられるだけでなく実際にそうなのである。本当の苦痛とは、なにかを見ることによって、たとえば肉親が惨たらしく殺されたり、原爆に被災した人たちが苦しみながら死んでいく現場を目前で見ながら、どうすることも出来なかったような体験が自分の精神を蝕んで自分の生存そのものが苦痛となってゆくプロセスであると言えるであろう。そういう意味で言えば、私がクーラーの効いた部屋でビールを飲みながら音楽を聴いたりネットで麻雀ゲームに興じている時に、見も知らぬ子供たちがどこかで寂しく無残に死んでいった状況を後から報道で知って感じ入る観念的な心の痛みは、何かを見るリアルな痛みとはまったく異質なものであるから単純に比較できるものではないとはいえ、それでもやはりいずれは忘れ去られる運命にあるゆえに“初めから”無視できる痛みであるといえる。要するに、まがいものの苦痛感覚は本物の苦痛に対する冒涜ではないのかということだ。そういう見解もよくわかるので私の心は自縛に陥り、身動きが取れなくなるのである。
しかし、こういうことも言えるのではないのか。今や制度が、そして制度に固着する社会意識や思想が、社会の最弱者にして無垢で美しい魂をもつ子供たちの命を救うことにはっきりとした限界を示しているのである。我々は、見も知らぬ子供たちの死に対する心の痛みの性質を問う以前に制度上の問題に対して責任を持つべきではないのか。実はこのことについては、私自身が昨年の6月に離婚を経験した時に親権要求の拠り所となった論拠でもあった。当初、親権については元妻が譲らないと言っていたし、裁判所も元妻に親権を認める方向性を示していたのであったが、私は陳述書で畠山鈴香の例まで持ち出して社会矛盾を訴えたのであった。それは、私がこのような悲惨な虐待死事件が起きる度に考え続けてきたことである。母子家庭の母親が強くたくましく生き抜いて、子供たちを養い育てていくことは社会の期待するところであり、また実際にその責務を果たしている立派な女性は多い。しかし現実の一部では、昨今の過去とは比較にならないような厳しい不景気な情勢下において、母親が親権を取ったものの生活が成り立たずに日々気持ちが荒んでいくと、時としてこの子供たちさえいなければという気持ちに追い詰められたとしても、それはある意味において社会的必然ではないのか。だから、そういう状況と気持ちになって子供を殺害するのであれば、子供を愛情を持って育ててくれるべき元夫や元夫の親族に引き渡せばよいのである。日本では離婚後の共同親権が認められていないことが、何よりも荒廃した家庭内の子供たちの命を守る大きな障壁となっているのである。そして共同親権制度がないゆえに、母親は社会が期待するところの母性に絡め取られるようにして、一旦引き取った子供を生活が立ち行かなくなったからといって離婚した元夫側に返すような行為は、無責任で非常識な母親として世間一般から烙印を押されることを恐れるがあまり、たとえ親権移動が法律の手続き上は可能であっても現実的には有り得ないことになっている。そういう社会背景が原因で、母親が子供を殺害する狂気にまで至るケースが確実に増えているのだと。私の妻が息子に対してそのような暴挙に出ることは絶対に有り得ないことであると私は心から信じているが、私は一人のナショナリストとして罪のない子供を見殺しにするような偽善的な社会システムを許せない。社会全体で子供を育てるなどという論調は制度欠陥をごまかす口先だけの方便に過ぎない。児童相談所や警察の対応が問題視されることが多いが、現実には家庭と言う密室で突発的に為される凶事を正確に予見したり、24時間体制で監視することなど土台、不可能である。離婚家庭の子供の生活環境は、現在の社会状況下にあって離婚時と比べて急速に悪化していくことが多い。一旦決めた親権をたいした理由もなく移動させることは子供のためにならないが、環境変化に柔軟に対応できるようにするためには離婚後も両親が一定の協力関係の元で子育てにあたる共同親権制度が採用されるべきである。
そのような内容の主張を陳述書でしたところ、高裁の女性裁判官は元妻を説得してくれて結局私に親権が認められ、元妻は監護権者となったのである。私にとって共同親権の代替となる親権と監護権の分離は、離婚しても母親と父親が子供のために現実的な協力関係を維持し続けることが可能なことを社会に認めさせる生きた事例として提示してやろうという思いもあった。それで裁判官にあてた陳述書に、自分個人の問題としてだけではなく社会を変革する材料にしたいという気持ちも書き添えたのであった。
結果的に現在のところは、離婚して元妻と仲良くなったということは当然ないけれども、いたって何の問題もなく良好である。息子は週末になると私が住んでいる家に遊びにくるし、元妻とも始終連絡を取り合っている。学校のことや息子の友達関係のことなどは元妻から話しを聞かなければ私にはまったく情報源がないからである。元妻がパートの仕事を始めたときには私が身元保証人の判子を押すことになった。元妻が息子の学校の成績や将来について心配する話しを聞かされることが多いから、私が息子が住んでいるマンションに家庭教師として勉強を教えにいくこともある。もちろんマンションは私が長居するべき場所でないことはわかっているから勉強が終われば、だらだらせずにすぐに帰ることにしている。最近では月に一度は外で予約を取って3人で食事をしている。私と元妻は離婚をしていても、我々3人は家族である。それが何か問題があるだろうか。