龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

我々の認識が全て 6

いや、厳密に言えばまったく問題がないわけでもない。これは元妻から聞いた話しであるが、同じマンションの隣に部屋に住むご婦人から最近全然ご主人(私)の顔を見ることがないので、離婚したのですかと聞かれて、いえ離婚してません、と答えたらしい。私の両親の身体の調子が悪くて(実際には健康である)、ちょっと実家に帰っていますと適当な嘘をついたと言っていた。正々堂々と、離婚してその上で交流しています、と言えばよいものをどうも言い難いみたいである。それは元妻が、息子のために旧姓に戻さずに私の姓を離婚後も名乗っている事情もあるのかも知れないが、基本的には日本の社会に離婚後の共同親権的なライフスタイルが市民権を得ていないために公表するに後ろめたい心理が働くのであろう。しかしそのせいで私はマンションに入っていきにくいのである。そのマンションに住んでいた当時には管理組合の役員をしていたこともあって顔見知りの住人も何人かいる。何年も帰ってこないで一体あそこの旦那は何をしているのだと思われていることであろう。週末に車でマンション前まで息子を迎えに行く時には車の中に隠れていることが出来るので安心なのだが、息子に勉強を教えに行くような時には1階の集合玄関付近で誰かにばたりと会って、お久しぶりですね、などと言われようものなら何と答えたものかと内心、戦々恐々としている有様である。だから正直なところマンションの部屋にはあまり入っていきたくないのだ。日本の社会変革において世間体を克服することが最大の難問であるとも言える。
正直なところ昨年の6月に、それまで2年にもわたって調停や裁判を繰り広げ神経をすり減らした末にやっと離婚が確定した時には心底、ほっとした。ほっとし過ぎて共同親権的な生活スタイルを日々より安定したものへと構築していく中で、高裁に提出した陳述書の内容とは裏腹に、自分の体験を社会変革の材料にしようなどという“高邁”な精神は、私の気持ちから薄らいでいった。あまり認めたくはないが、人のことなどどうでもよくなってきたのである。息子の笑顔を見れて、一緒に遊ぶことが出来る状況が私には幸福の全てであった。過去のいやなことは早く忘れてしまいたかった。しかし陳述書を書いていた時期からちょうど1年後に、『隣の家の少女』という小説をたまたま読むことになり、その後3ヶ月程度の間に報じられた事件を考えると、私は自分のメンタリティーゆえに複雑な気持ちとなり、やはり心が痛むのだ。この1年ほどで子供の虐待状況は私が陳述書で訴えた通りに増加しているのだ。私は自分が為すべきことを怠ってきたのではないのか。もちろん陳述書に何を書こうとそれはその場限りのことであり、その後の社会状況は自分とは直接関係のないことであるとも言える。しかし、それでは私が痛烈に批判している国会議員たちのメンタリティーと同じレベルになってしまうではないか。もちろん私には権力がないから外面的には責任はないが、私が問題にしている価値基準は、嘘やごまかしの効く外面性ではなく魂の領域にまで及ぶ内面性なのだから、やはり無視することはできない。だからと言って具体的に何をするというわけでもないのだが、自分に出来ることは自分の気持ちを包み隠さず言葉にして表現するということだけである。
今回このように長々と堂々巡りのような文章になってしまっているのは、やはり私の精神の奥深くで、幼児虐待死の悲惨な事件に対して少なからずのショックと動揺があるからだと思われる。
その上で、幼児虐待について私が考えることを書くことにしよう。まず最も重要だと思われる点は、子供の虐待が行われる環境は先に述べた母子家庭の母親が加害者となるケースだけではなく様々なパターンが考えられるであろうが、一貫して共通している特徴があるということだ。それは虐待する側が、必ずしも自覚的に悪をなしている訳ではなく、その反対であることが多いということである。要するに、しつけと称して子供のためを思って愛情の裏返しでしていることだから部外者に批判される謂れはないという理屈になる。ここには感情が倒錯した暴力衝動が、自らの行動を常に正当化し得る管理者の立場と結びついて自己抑制の箍が外れてしまっているのである。この心理構造を突き詰めれば、正義とは自らを正当化し得る強者の立場によって支えられた観念に他ならないという解釈にゆきつく。国家間の侵略行為や戦争も、国内における力の弱い大衆に対する権力の横暴もマスコミの情報操作も基本的には皆、同じ構造である。幼児虐待とは要するに、そのような政治権力のエッセンスとしての毒が凝縮されて家庭という末端の枝に結実する果実のようなものであって、これは中々に根深い問題であると思われる。この2ヶ月の間に報じられた忌まわしい児童虐待事件と民主党政権構造の質的内部変化が、まったくの無関係で偶然に過ぎないと言い切ることが出来るであろうか。家庭内でなされる幼児虐待は、“反社会的”ではあるが、“非社会的”ではないのである。社会構造の暗部が増幅して転写され、再現されているのであって、幼児虐待は云わば、通俗的な言い回しではあるが社会の影である。本体を温存させて、影のみをなくならせることは“物理的”に不可能であるということである。一方、私のようなメンタリティーは“反社会的”ではないが、“非社会的”であると言える。私という存在は、強者が正当化する正義のあやかしを否定するためにこの世に生まれてきたものである。だから幼児のように絶対的に力の弱い立場の者に対して一方的に価値観や善悪を押し付けることが不得手な人間でもある。私は自分の息子だけでなく、世間一般の子供たち全般に対しても一日の長があるという優越感覚すらまったく持てないのであるが、強者の論理に唯々諾々と付き従う管理者にはなぜか徹底的にこき下ろしたくなるのである。それが良いか悪いかはともかくとして、私はそういう人間なのだ。しかし世界とは私はバランスの産物だと考えているので、私のような人間がもっと増えないことには、強者の論理だけではなく強者そのものも駄目になっていくと思うのであるが、いかがであろうか。