龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

我々の認識が全て 7

幼児虐待は支配、被支配の関係性から生じる歪みであって、垂直方向における社会区分の断面にその問題の在り処を求めることが出来る。資本主義社会特有の所有、被所有の問題と同列である。親権のありかたの問題は、親権が子供の所有という感覚に深く結びついているところから、子供の人権を阻害しているのである。結局それは子供が親の所有物であるかのような捉え方の方が、司法を初めとする権力の大衆支配にとって都合が良いからである。最も分かりやすい例で言えば、父親と母親が親権をめぐって深刻に対立し法廷で相争うような案件が(私の場合はどちらかというと親権よりも離婚そのものを争っていたのであるが)弁護士の全体の仕事量の何割かを占めているという事実がある。よって弁護士は積極的に共同親権制度を認めたがらない傾向が強いし、調停員や裁判官は私がしたように単独親権の欠陥を的確に指摘されると、言葉は悪いがあまり大ごとにならないように上手くごまかそうとする。たとえば私のケースで言えば、裁判官が判決では妻の方に親権を与えることになると言いながらも、和解で私に親権を認めさせるように元妻を説得する方法が取られる。まあ、私の弁護士と妻の弁護士が束になって説得しても了解してもらえなかったであろう交渉を、高裁の女性裁判官が一人で妻を説得したのだから天晴れというか、感謝する気持ちになるのは当然ではあるが、やはりどこか腑に落ちない部分は残った。
当時の私の弁護士は、共同親権制度が採用されたからと言って特に社会的な不都合はないと思うという見解を述べてもいたが、一方で離婚の調停や裁判で揉めているような状況で夫婦間で連絡を取り合って子育て出来るケースは非常に少ないとも言っていた。私は調停や裁判の期間を通して別居はしていたもののずっと連絡を取り合っていたのでレアなケースであるということであった。だから私の場合は離婚が確定しても共同で子育てしていけると思うと弁護士は言っていたが、世間一般的には女性の側が養育費はまったくいらないかわりに元夫の顔は金輪際、見たくないというケースが多いのだと困ったような顔で零していたものであった。確かにそうなのかも知れないが私に言わせれば、それもおかしな話しなのである。そもそもそのような感情を女性が持ち勝ちなのは、一体どこに原因があるのかということだ。人間の感情というものは、本人ですら無自覚に制度によって背後から形成されるウエイトが大きいのである。婚姻などというのはもっとも感情を押し付けられやすい、正に小さな箱の制度である。夫婦別姓などというものはその最たるものである。特に女性は制度に植えつけられた感情誘導に影響されやすいのだと思う。それを、女性は生来の性質として一旦嫌いになったら相手の顔も見たくないのが当然とばかりの定説がまかり通ることになる。こういうのも全てある種の社会洗脳である。因みに私の場合まったく自慢にならないことであるが、離婚調停や訴訟時の夫婦間の険悪さの度合いにおいて、同様の状況下にあるどの夫婦にも引けを取らないと思われるほどの最悪のものであったが、それでも私は淡々と電話連絡を取っていたし妻もそれに応じていた。妻が子供を私に会わせないような態度を取ることもなかった。それは私が妻の感情の背後にある社会構造を理解できていたからだと思う。今思い返せば結局のところ私は妻と戦っていたのではなく、妻の背後にある社会構造の観念と死に物狂いで戦っていたのだと思う。
夫婦間の問題は、水平方向の社会区分の断面に淵源している。それは正義の正当化ではなく、正義の取り合いである。男女間の正義の取り合いの背景には、政治的に歪んだ富の配分思想があるのだと思う。フェミニズム社会主義というのか何か知らないが、労使間の労働分配率に類する配分思想が夫婦間にあっては正義という観念を通じて権力が操作しているのである。もちろん歴史的に女性への社会差別があることは事実であるし、私は女性が家庭の中で子育てだけに専念せよなどという時代遅れのことを言うつもりは毛頭ない。しかし女性の地位向上をすこやかで開放された建設的な精神によってではなく、何か陰謀的に男女間を仲違いさせたり、子供の取り合いをさせたり、男性を卑しめることによって誤魔化そうとするのは、日本の政治家の猿知恵と言うか悪弊である。特にDV法などというものは男性差別の象徴である。またDV法的な思考はマスコミが大衆を睥睨するための手段ともなっているものであり、それは結果的に強者にへつらう支配体制を強化することにつながっている。男性差別の背景には、より根源的な女性蔑視と大衆操作が隠されていることを見抜くぐらいの知的能力は持たなければならないと思う。簡単に言えば、大衆の男性を小ばかにして、大衆の女性を立てていれば国家社会は安泰だというような卑屈で単純な思い込みもあるのであろう。言っておくが女性であれ男性であれ大衆そのものはそういう風には考えていない。大衆とは常に誠実である。大衆を操作している管理者的な立場にいる人種がそのような思想を持つのだ。
5月12日、衆議院内閣委員会においての、民主党三宅雪子議員の転倒騒ぎは、そのような大衆操作の政治権力を象徴しているかのような事件であった。混乱の最中にいきなり、どてっと倒れて「ひどーい」と言って睨み付け暴力を訴える。翌日にはギプスをはめた松葉杖姿で、男性議員の背中に背負われて国会内に登場し満場の拍手喝さいを浴びる。まるでお祭り騒ぎである。このような興行的な見世物について、常識的な国民感覚で言えばあきれてものも言えないということになるであろう。しかし形式的に見れば、三宅雪子議員は医師の診断書を取って自民党の甘利議員に押された結果だと証言していたのである。こういう場合、日本の慣例というかしきたりではDV法や痴漢防止条例の精神に則って女性の言い分を無条件かつ全面的に採用すべきはずではなかったのか。何でこの時ばかりは、法律を作るべき立場にある国会議員が尤もらしい反論をすることが許されるのか。特に自民党民主党政権までの長期間にわたって、DV法のような不公平な法律を作ってきた当事者ではないか。よってこのような事件に際しても、我々一般国民の場合であればほとんど反論も許されず権力に強要されて認めざるを得ない立場にあることを鑑みれば、甘利議員ほか自民党議員は潔く三宅雪子議員の主張を全て認めることが筋道ではないのか。我々一般人とちがって国会議員は不逮捕特権があるのは止むを得ないが、三宅雪子議員の主張が仮に自作自演であったとしても、甘利議員は女性に暴力被害を訴えられたこと自体の責任を取って自ら議員辞職すべきである。その上で、我々一般人と同じように膨大な時間と金をかけて冤罪であることの証明をなすべきである。それが法の下の公平である。法が公平であるかどうかは別の問題だ。
我々国民が日本という国のなかで自らの幸福を希求し、安心して子供を育てられる健全な社会を作り、そしてやがて来るべき死にそなえて自殺などという不自然な方法ではなく、しっかりと生き、しっかりと死ぬためにはどうすればよいのか。社会に蔓延し、巣くうこれら国民をごまかす支配構造が自分たちの生活にどのようにつながっているのかをよく目を凝らして見極めることが出発点になるのだと思われる。我々の認識が全てである。たとえ唯識であろうと、唯物であろうと、我々の認識が全てなのだ。