龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

離婚と親権制度について

離婚と親権制度について、前回の話しに補足してさらに踏み込んだ自分なりの見解を述べたい。先ず日本において離婚は、“破綻主義”が採用されている。“破綻主義”とは、“有責主義”に対置する法律上の概念である。以前は有責配偶者からの離婚請求が一切認められなかったのに対し、現在では夫婦関係が破綻しているのであれば、たとえ有責配偶者からの離婚請求であっても離婚が認められるケースが多くなっている。
しかしこれはあくまでも最終的に判決で離婚を決する場合の判断基準であって、現実的には離婚の9割は協議離婚である。私のように調停や裁判を通じて離婚を争うというケースは、全体の離婚の中でも例外的で少数派である。家庭内で、夫婦が互いに、お前が悪い、あんたが悪いと言い争っている間は、それも一つのコミュニケーションとも見れるものであって客観的には破綻している状態とは言えないものである。ところがある日、妻が子供を連れて実家に帰ってしまって夫がいくら電話連絡をしても妻は応対に出てこない、妻の親族も妻と子供を夫の元に戻らせることに非協力的である、夫としては為す術もない、そのような硬直した状況が1年ほども継続してから妻がいきなり弁護士を立てて離婚を申し立ててきた、夫としては不本意ではあるが妻が当事者間の話し合いに対して取り付く島がないので離婚そのものは認めざるを得ない、こういった状況が離婚に至るプロセスとして世間一般的には多いものである。この場合、子供の親権は当然母親が持つことになり、子供を父親に会わせるかどうかは現実的には母親の気持ち次第ということになる。しかし母親が父親との接触を一切拒否しているのであれば、ほとんどの場合は母親は父親に子供を会わせようとはしないであろう。
ここで、父親が子供と引き離されて会えなくなってしまうことが問題となる。国際離婚においてはハーグ条約に加盟するかどうかの外交問題にまで発展してしまうこととなる。日本の民法の基本的な考え方においては、離婚とは夫婦の良好な関係性や紐帯が破綻している状態を意味しているのだから離婚した父親と母親が協力して子育てを出来るわけがない、ということに一応なっている。それは一面尤もらしい見方ではあるが、必ずしも全面的にそうだと決め付けられるものでもない。現に私の場合で言えば、親族間のトラブル、訴訟が原因で夫婦間の別居が相当期間、長期化していたことから、夫婦関係は実質的に破綻しているものとして、私が請求していた離婚は認められたものであったが、子育てにおいては別居当初から今日まで一貫して私と元妻は協力関係にあり続けてきたものである。ここにおいて重要なことは、夫婦関係は破綻していても協力して子育てに当たれるケースが現実にあるのだという事実と、また弁護士や裁判官などの司法関係者は夫婦が子育てにおいて協力し合えている協力関係を根拠に夫婦関係が破綻していないと認定することはできないという裏返しの論理構成も成り立つということである。要するに夫婦間に別居せざるを得ない特段の事情があって、主観的にも客観的に婚姻関係が破綻したと看做される状況があったとしても、子育てを協力して行うことは充分に可能だということだ。
あるいは人は私のようなケースは特殊であって、一般的に妻が夫との接触を拒絶するパターンでの離婚が多いのだから親権もそのような状況に即した単独親権にならざるを得ないと主張する人も多いであろう。そしてそのような状況を側面から理論補強するかのようにDV被害が持ち出されることが多い。しかし私に言わせればここにかなり怪しげな大衆操作と洗脳の要素が見受けられるように思えるものである。確かに本当に深刻なDVがあって、妻を夫から隔離させたり、裁判所が保護命令を出す必要性があるケースもあるであろう。しかし一方で、たとえば妻が浮気をしていて夫と別れたいという場合に妻が自分の立場を法的に正当化するためにDVがあったと虚言することはそのような状況下にあってさほど心の疚しさを覚えるものではないであろう。医師の診断書など病院に行けば、すぐに書いてもらえる。自分で勝手に蹴躓いてこけて出来た怪我であっても、医師はその怪我の原因まで特定することはできないからだ。反対に夫が浮気をしていることがわかって妻が愛想をつかせて離婚を決意した時に、夫が浮気を頑として認めようとせず、また法廷で浮気の事実を証明をすることが困難な場合にもDV虚言が為されるケースもあるのではないか。あるいは浮気などの不貞行為はなくとも、単に夫が会社の倒産やリストラで失業して再就職先を探しているが不景気の影響下でなかなか見つからない、その結果、夫は最近家でごろごろばかりしている、そのような生ゴミのような甲斐性のない夫を家の中で毎日見ていると自分自身がみじめな人間に思えてきて、イヤでイヤで耐えられない、もう夫の顔も見るのはいやだから一刻も早く離婚したいというケースも今の世相では当然多いはずである。しかしそのような理由がはたして正当な離婚事由として認められるかどうかわからないから、愛情の冷めた夫に対する憎しみも手伝ってDVをでっちあげてあっさりと離婚しようと考える女性がいたとしても全然おかしくはない。いや、多分にそのようなケースはあるはずである。
要するに現在のDV法は女性が自らの立場を正当化するためのアロエのような万能薬である。この、女性にとっては薬草であり男性にとっては毒草の植物は、我々の家庭の中に自然に生えてきたものではない。政治的な意図で人工培養された麻薬のようなものである。私は女性を侮辱するつもりはまったくないが、肝心なことは女性であれ男性であれ、全ての大衆にとって法律とは犯しがたくも神聖で無条件に正しいものであると認識されているということだ。私のようにその神聖な法律の悪口を言うような人間はむしろ例外的であって、憲法同様に法律の条文が個人の倫理規範を定め、全体の社会意識を決定するのである。よってある法律が自らを全面的に肯定してくれるものであれば、その論理体系を自らの立場を正当化するために利用することはたとえそこに嘘があったとしても悪用ではなく常に善用になるという社会意識が醸成されることになる。子供を夫に無断で連れ帰り、一方的に離婚を要求して、子供を夫に会わせないという態度はこのDV法的な思考による大衆誘導と深く結びついているように私には感じられるものである。たとえばアメリカにおいてもDV被害の訴えがあまりに氾濫しすぎて社会問題となった時期があった。アメリカの5年前を見れば、日本の近未来がわかるということはよく言われることである。被害意識というものは同調して加速度的に増幅されてゆくものである。アメリカでは他にも幼児期における架空の虐待体験が、催眠誘導によって無意識に植え込まれ、訴訟が引き起こされるケースが増加した社会問題も記憶に新しいところである。また訴訟とは関係ないが、アメリカ国民の10人に1人がUFOに拉致されて記憶を消された体験があると信じているという情報もあるようである。
アメリカほか欧米諸国では1980年代中ごろから、離婚後の単独親権の弊害が認められ共同親権に移行していった。日本においても今や1人親家庭の共同親権制度が検討されられなければならない時期にきていることは、遅まきながらも時代の流れとして必然であるといえる。しかしアメリカに右へ倣えと後追いばかりしている日本にも、共同親権の問題においては日本という国家形態の根本的な特殊事情があって必ずしも採用されることになるのかどうかわからない部分もある。それは日本は天皇を擁する君主制国家であり、アメリカは共和制国家であるところの違いによるものではないかということである。たとえば日本と地政学的にもよく似た島国で、国王のいる君主制であるイギリスは欧米諸国の中では一番最後まで単独親権が継続されていた国であった。ただしこの見解については、私の勉強不足ゆえにまだはっきり言い切れる自信があるところまでは到達していない。直感的に何となくそう感じるだけである。これを意見らしい意見に鍛えるにはそれなりに資料となる文献をそろえ、読みこなして理解を深めてゆかなければならないであろう。現状においては、天皇制とは社会の末端の構成単位である家を通じて国民全体の精神と生活を“束ねる”機構であるがゆえに、家制度を“解く”方向に作用する離婚後の共同親権制度とはどこかで対立する概念であると考えられているのではなかろうか、とおぼろげに感じる程度である。しかし共同親権制度の導入を主張するために、自らの離婚後の生活実例で立証するだけではなく、日本の天皇制まで掘り下げて勉強しなければならないのであるとすればこれはちょっと大変なことである。
今から5時間ほど前に元妻から小学校4年生になる息子の、夏休み宿題である自主研究課題を夏休み中に終わらせることが出来るかどうか心配だとのSOSの電話が入った。息子は自主研究課題に“地震”を選んだようであるが、まだ何もしていないし、何をどのように書かせればよいのか見当もつかないと元妻はうろたえて言うのだ。その他にも、天体観測の宿題があって私に代わりに夜空の星を見てくれと言う。私は、大阪で星を観察しろという宿題そのものが間違っている、そんなもの実際に見なくてよいから適当に書いとけ、と言ってやった。すると横から息子が、「ほんまに、ちゃんと見て書かんとあかんねん。」という声が聞こえてきた。何とも困ったものである。
因みに、私の自主研究課題である“日本の天皇制と家族について”の論文は、来年の夏の終わりごろに完成する模様である。今年の夏の終わりまでに何かを終わらせるには、とても時間が足りない。