龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

子供を救え

しかし本当に子供の虐待死だけは、どうにかならないものだろうか。「ごめんなさい。」と謝っている何の罪もない子供を殺すなんて、あまりに酷すぎるではないか。私がいくら嘆いたところでどうなるものでもないが、もう我慢の限度を越えている。嘆くだけでなく、怒りの社会分析を試みることにしよう。
先ず、子供の虐待死には典型的なパターンというか条件があって、それは父親が無職であるということだ。家庭の中で父親が平日の昼間から仕事もせずに酒を飲んでふて腐れているような状況が一番危険なのである。そこに小学生ぐらいの小さな子供がいることになると、ほぼ間違いなく本来憩いの団欒であるべき家庭は地獄の様相を呈することとなる。その子供が実子でなく再婚した妻の連れ子の場合に、虐待が殺害にまでエスカレートするケースがこれまでに数多く報道されている。
男は、どんな仕事であれ朝から夜まで一生懸命に働いて、幾ばくかの金を家庭に入れることが基本形なのである。その基本に従ってこそ家庭内の秩序と平和は保たれるのだ。仕事がなくて凡人の父親は、家庭の中でどうしようもなく一つの摂理のように荒れてしまう。いい年をした大の男が仕事もせずに日がな一日狭い家の中で手乗り文鳥の如く大人しくしていることは、事実上不可能であるということだ。しかしこの状況は、多分に政治の責任でもあることを忘れてはならない。国内に仕事がなさ過ぎるのである。30歳代ならともかく、40歳代に突入すれば何度ハローワークに通い詰めても新しい仕事を見つけることはほぼ無理であろう。長年に亘って経済のグローバル化などと言い、一部の大企業ばかりを優遇し、国内の消費や雇用を徹底的に崩壊させてしまって結果がここにあるのだ。“男女共同参画”などという“高尚”な理念を多額の予算を投じてまで金科玉条のように保持させているどころの話しではないのだ。わかっているのか。・・・おい、人の話しを性根を入れてきちんと聞いているのか。私には関係ありません、てな顔してそっぽを向くなよ。
もう一つの幼児虐待要因は、私が考えるに夫婦の不仲である。亭主が家の中で仕事もせずにだらだらしていれば夫婦仲が悪くなるのは当然である。フェミニストであればそういう時こそ女性が働いて家計を支え、愛の力で生活の困難を乗り越えていくべきだと、男女共同参画の道を説くかも知れないが、確かにそれは一つの理想の形ではあろうが、現実にはそうはいかないのである。大体からして、普段は利権という糞に集ることしか考えられない根性をしているのに、こういう時だけマザー・テレサみたいな立派なことを言うな。そもそもそういう崇高な魂を持った人間であれば、どのような過酷な境遇であれ幼児を虐待死に追いやるようなことは絶対に有り得ないのだから、言っていることが論理矛盾しているのである。一般的な俗人であれば、そういう時には家庭の中で夫婦が激しく罵り合うものである。しかし夫婦喧嘩というものはものすごく多大なエネルギーがいるものである。そしていずれ、多大なエネルギーを消耗して罵り合った結果が、自分たちの惨めさ加減に向き合わなければならない地点にしか落ち着かないことをさすがの凡人でも思い至ることとなるのだ。仕事もなく昼間から酒を飲んだり、金もないのにパチンコに行っている男の惨めさと、そういうだらしない男と所帯を持って一緒に住まなければならない女の惨めさにである。だから惨めさに向き合わない“解決策”を世俗あまたの凡人夫婦たちは思いつくこととなる。それが夫婦一緒に力を合わせて、“しつけ”という名のもとに無力な子供を攻撃することなのだ。子供を攻撃している限り、自分たちの惨めさを直視しなくてすむからである。こういう風に考えれば、現在のDV法がかなり深刻な問題を孕んでいる悪法であることを理解できるであろう。ウサギ小屋と呼ばれるような日本の住宅事情の小さな箱の中で夫婦が生活していれば喧嘩になるのは当然である。口喧嘩だけでなく、時に取っ組み合いになったとしてもある意味においてそれは自然な姿である。こう言っては何だが、性行為そのものが取っ組み合いみたいなものではないか。もちろん夫婦間で殺し合いにまでいたるような危険な喧嘩を奨励できるわけがないが、一定の節度と限度の範囲内で夫婦喧嘩を繰り返している方が、今の社会状況の中ではまだしも平和なのである。一定の節度と限度が守れないような、仁義なき戦いになるのであれば離婚しなければならないということ、ただそれだけのことだ。それが偽装的に家庭の秩序を保つ上で、夫婦間の心理的な溝を埋める代償行為として夫婦が結束して子供に暴力を振り向けるようになると、離婚のように親子の縁は簡単に切れないからその暴力は際限がなくなってゆく。そして日々、報じられているような子供の虐待死や餓死などの悲惨な事件が増えているのだと私は見ている。もちろん私は専門家でないので偉そうに解説できる立場にないが、それほど的外れな見解ではないとの自信はある。しかし私が何度も言う通り、権力筋は現時点での利権を維持する上で妨害となるような見解は基本的にというか絶対に認めない。世の中の事象は全て人体の内臓諸器官と同じように有機的につながっているのに、利権は分断する思考からしか生まれてこないからだ。そのためにこそ、政治の力が必要なのに今更繰り返すまでもなく現在の政治家は勉強もしていないし、意識も低いから利権擁護の発想しかでてこない。本当に情けないことだ。
最後に、では具体的に子供の虐待死を防ぐにはどうすれば良いかという点について触れておきたい。毎回、児童相談所の対応のあり方が論じられているが、私は現実的には児童相談所が対応しきれるものではないと思う。子供を餓死させるような非道きわまりない親であっても、近隣の地域住民の目は気にするものである。子供の命を救うには行政よりも、住民の監視の目に頼るしかないのが現状だと思う。大体において、回りの住民は薄々は感づいているものである。
ただそこに住んでいる限りは、声を上げ難いのだ。誰だって近所でトラブルを起こしたくはないからだ。しかし直接、その家に様子伺いに行くようなことをしなくとも児童相談所に通報しやすいようにより一層、社会全体で仕向けてゆくべきであろう。そして児童相談所は、その地域の町内会や自治会などの組織と連携を密にして虐待を防ぐべきだ。子供の命が関わっているのだから、プライバシーだとか個人情報がどうのこうのと下らないことを言わないで欲しい。役所的な対応だけでは、虐待から子供を救えないことは、これまでの実例が、すなわち亡くなった何人もの子供たちが声なき声で教えてくれているではないか。あなたたちには、その声が聞こえないのか。