龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

表現の戦い

確かにその通りだ。前にも述べたように、私はTV局の韓国ドラマやK-POPの放映が多いことを偏向だとして批判すること自体は、それほど意義のあることだとも思えないが、一つの社会現象として数千人単位での抗議活動がデモとして起こっているのであれば、その事実を報道しない、あるいは黙殺しようとするメディアは、メディアとしての社会的責任を放擲しているのと同じである。しかしその姿勢こそが純然たるメディアの本性であることを我々国民は、よく弁える必要がある。今に始まったことではないということだ。
マスコミの報道は基本的に“マッチポンプ”である。意図的に自分でマッチで火をつけておいて、それを自分でポンプで消火して、不当な利益を得ることをマッチポンプと言う。だから自分たちの利益にならないこと(それは大衆に広く知らしめれば危険だとマスコミが勝手に決め付けることであるが)には、元から絶対に火をつけようとしない。すなわち無視して報道しないということである。それでは、どういう事柄がこれまでマッチポンプの対象になってきたのかと言えば、もうほとほといやになるほど繰り返されてきた冷戦構造下における二項対立に属する議論である。具体的に言えば、卒業式における国歌斉唱や日の丸掲揚の強要が適切かどうかとったことだ。大衆世論という草原に火をつけては消し、火をつけては消しの操作を、馬鹿の一つ覚えのように延々と反復させてきた。一人のナショナリストとしてはっきり言うが、国歌や日の丸は国民生活とは何の関係もない。そういう議論の渦に大衆を巻き込むことが、マスコミ業界の利益や権威を底から支えているだけのことである。
国民が自立的な思想を持つことは、民主主義の本来の姿であるべきはずであるのに常に大衆をコントロール可能な管理下におこうとするマスコミから見れば極めて都合が悪いのであろう。これまでに私が何度も述べているように、TV番組はニュースであれ、バラエティーであれ、ドラマであれそこに程度の違いはあるが基本的には国民が目覚めないようにする、要するに馬鹿の状態に押し止めようとする情報操作のための装置なのだ。だからこそ私は、TVなど見るなと言うのである。そういう私自身も少しは見ているが、批判的にしか見ない。マスコミが避けて通ろうとする事実は、何も韓流批判だけではない。私が前回、書いたようなこともマスコミが絶対に触れないことである。フェミニズム関連で言えば、これまでにDV法の反対集会も行なわれていたようであるが、韓流批判のデモ同様にマスコミは徹底的に無視し続けてきた。反対に言えば、マスコミが絶対に触れないで、尚且つ日本社会全体にとって非常に重要であると思われることは述べられるべき意義と述べるべき使命があるということである。私が書く理由はそこにしかない。何も暗殺されるわけではないのだから、恐れることはないのだ。マスコミが誘導する付和雷同に埋没しながら人生を全うすることは、今の日本の社会状況を考えれば美徳でも良識でも有り得ないということだ。マスコミ報道のあり方は、本質的に大衆を無力化しようとするものである。マスコミが維持しようとする道徳は、無力な大衆秩序の上に成り立つ業界利益に過ぎない。だからこそ日本の生活レベルは、世界第三位の経済規模にも関わらず、これほどまでに劣化し荒んできているとも言える。
もちろんマスコミが全て悪いわけではないが、マスコミが大衆をコントロールするのではなく大衆がマスコミをコントロール出来なければ、ごく一部の特権的な階層以外の生活は、マスコミが主導する道徳と情報に絡め取られて益々、悪化してゆくことであろう。日本は中南米諸国のような貧困と不正と犯罪が日常的に蔓延る社会に仲間入りしてゆく、とば口の地点に立っているのである。
だからこれは一つの目に見えない階級闘争である。デモが悪いとは言わないが、日本人は元々秩序を重んじ、理性的な民族だから中国の暴動のように拡大してゆくことがなく権力を脅かすところまでには至らない。結局マスコミに黙殺されてしまって、マスコミの力と権威を大衆に認めさせることとなり、諦めのムードが社会全体に漂うこととなる。ではどうするべきかと言えば、これは私の考えであるが、一人一人が単に“宣言”すれば良いのである。たとえば私が述べたように、“国政選挙には今後、絶対に投票しない。”とか“TVは最低限にしか見ない。見る時にも批判的にしか見ない。”といったことである。誰かを煽動したり注目を集める必要はないということだ。自分一人だけが宣言したところで何の力にもならない、という考えは間違っている。マスコミや政治家が大衆にそう信じ込ませたいだけである。論理的に筋道が立っていて尚且つ自立的な思想と、その思想に基づく宣言は何よりも効果的なのである。その力を覆い隠すために、数の幻想があるとも言える。民主主義は最終的には“数”によって決まることは、一つの真理ではあるが本質ではない。数を支える本質の方がより重要であり、一人の孤独な宣言は目に見えないところで必ずつながっているということだ。だからマスコミを初め政治家や官僚などの為政者は、そのつながりを監視し、時に分断しようと工作する。本来、表現とは迎合ではなく戦いである。戦いたくなければ黙っていればよいだけのことである。