龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

徳なき政治の帰結

細かな事に、腹が立つ。
毎月、元妻に養育費を銀行振り込みで送金している。私も元妻も三井住友銀行普通預金口座を持っているので、同行間の送金なのだが、支店が異なるので送金手数料が掛かる。私は送金の記録を兼ねて、養育費振込み専用に“振込み便利帳”なるものを利用してきたが、これまでキャッシュカードでわざわざ養育費相当額の現金を一旦引き出してから、振込み便利帳と現金でATM送金してきた。その方法だと送金手数料が420円掛かるが、私はこれまでずっと何も考えずその420円を負担してきた。 ところが昨日、たまたま女性行員に聞いてわかったことであるが、振込み便利帳とキャッシュカードで送金すれば、何と手数料は105円で済むとのことである。「え、そうなんですか。」と答えて、しばし小さなショックに打ち拉がれて佇んでしまった。何たることか、晴天の霹靂だ。思い返せば、正式に高裁の和解で離婚が確定してからは2年と2ヶ月であるが、それ以前に5年にも亘って別居期間があったから、通算すれば7年と2ヶ月である。私は7年以上も三井住友銀行に対して何の見返りもないのに毎月、送金手数料を315円余計に貢いできたことになる。ああ情けない。無知とは損失である。金額は大したことはないが、そういう問題ではない。自分の不注意が原因とは言え、普通預金の利息が0である時代に、無意味に小銭をどぶに投げ捨てているようなことに、どうして私は7年間も気付かなかったのだろうか。きっと、他に考え事が多すぎたせいだ。銀行ATMの硬化受け入れ口を賽銭箱だと思って、自分を慰めることは出来そうもない。相手が大銀行であれば、尚更のこと。
このささやかな悔しさは、ささやかゆえに永遠に忘れることは出来ないであろう。私の魂に遺伝子のように組み込まれて、来世にまで持ち越しそうな気がする。次に生まれ変わった時に、ATM(もしまだそういう装置が残っていればの話だが)の前に立つ度に、不可解な悔しさの感情を味わいつつも理由がわからずに当惑している私の姿が目に浮かんできそうだ。
さて、差額315円の悔しさは一旦、来世まで忘れることにして、今世はより大なる我が心の怒りに向き合うことにしよう。ここからが、本論である。前回、平成23年度の男女共同参画関連の予算が、合計6兆7000億円にも上ることに触れた。補足すればこの予算にはある“計略”があり、その計略のからくりが、私を激しく憤慨させる。それは、男女共同参画の予算は、独立して別枠で計上されたものではないというところにある。分野ごとに各部門から寄せ集めた勘定科目を、男女共同参画予算として再統合させている。具体的に言えば、男女共同参画予算の内訳の中で、第5分野に“男女の仕事と生活の調和”という項目があるが、その第2番目に「多様なライフスタイルに対応した子育てや介護の支援」とあり、それだけで2兆1千億円も計上されている。これなどは財務省が公表している決算資料では、社会保障関係費28兆円に含まれている費用である。その他では、第7分野に“貧困など生活上の困難に直面する男女への支援”があって、その第1の「セーフティネットの機能の強化」に3000億円、第3の「安心して親子が生活できる環境づくりに関わる課題」として2200億円、合わせて約5500億円計上されているが、これらなども恐らく生活保護や母子手当てなどの社会保障に相当する費用であると思われる。よくわかりにくいところでは、第8分野の第1に「高齢者が安心して暮らせる環境の整備」があり2兆3千億円、第2の「障害者が安心して暮らせる環境の整備」に6300億円とあり、そう言った内容のものまで男女共同参画関連に組み込まれているのだ。要するにほとんどが実体的に社会保障費用なのである。それら社会保障の中に散りばめるように、本来の男女共同参画らしい項目である第4分野、“雇用等の分野における男女の均等な機会と待遇の確保”に220億円、第9分野“女性に対するあらゆる暴力の根絶”が880億円となっている。ここまで書くと、多くの人はそれでは一体何が問題なのかと、何も問題はないではないかと思われるかも知れないが、大いにある。ちょっと説明が難しいので、よく考えながら読んでいただきたのだが、それではそもそも何でこんなにわかりにくい方式で男女共同参画予算を組み立てているのかということだ。社会保障として計上されている項目をわざわざ引っ張ってきて、二重記帳のように男女共同参画として再構築させる必要性がどこにあるのか。それに一般的な感覚で見れば、男女共同参画だけで6兆円とか10兆円と言われれば、防衛関連予算よりも大きいのだから問題があると言う声が上がるに決まっている。そういう当然の反応を想定しながらも敢えて手間暇の掛かる操作をしているのである。私はこの操作は、明らかに下種な大衆操作であると見ている。男女共同参画という概念を社会保障の範疇下に関連付けて潜り込ませているのである。コバンザメが大型のクジラなどに吸いつくように、社会保障を盾にして男女共同参画単体が批判の矢面に立たないように防御しているのだ。本来であれば独立した固まりの予算として、それがどれだけ社会全体を有効に益しているのか、それとも効果がないのかについて公正かつ厳しく評価されなければならないはずだ。つまり前回、私が述べたような批判に対して、「いや、男女共同参画の予算はほとんどが社会保障関連ですから。」と言い訳をして多くの大衆を黙らせようとしているようにしか私には思えない。実際そのような説明をされれば、ほとんどの大衆にそれ以上の追及は不可能であろう。なぜなら誰もが社会保障を必要としているからである。そして誰もが男女共同参画予算の大きさに無警戒になってゆくことになる。また男女共同参画社会保障を盾にしている限り、各区分項目名を少し手直しするだけで時流の流れを読みながら、あちこちと予算を移動させたり、どこかに隠して避難させることもできるであろう。そういうことは官僚のお手の物である。それらの操作だけならまだ可愛げがあるとも言えるが、より本質的な危険性は、男女共同参画の先鋭的な理念が社会保障全体を内部浸食してゆき独自の色で、具体的には真っ赤に染め上げてしまう可能性があるということである。そうであれば男女共同参画は6兆円どころか28兆円の支配権を実質的に獲得することになる。そもそもフェミニズム社会主義者たちが男女共同参画制度を利用して目指している地点はそういうところにあるのではなかろうか。社会保障の質そのものを男女平等の理念を起点として総体的に組み替えようとしているのであれば、男と女の問題を遥かに超えた国家の根幹にかかわる一大事である。何よりの問題は男女共同参画には、そのように本当の目的を隠して大衆を洗脳しながら、謀略的に社会の質を変えていこうとするかの胡散臭さが強く感じられるということだ。本来の民主主義から最も遠く離れた地点に位置しているように私には感じられる。そういうフェミニズム社会主義と日本の官僚主義は、どこか波長が合う部分があるのかも知れない。
だから心配なのだ。
尤も前回にも述べた通り、現在の日本は長引く不況により歳入不足と歳出増加の鰐の口は大きく開いてゆく一方であるから、社会保障の予算そのものが確保しにくくなってきている現状にあり、必然的に社会保障を盾にした男女共同参画の動きにもあまり勢いが感じられない。これはフェミニズム社会主義者たちの戦略ミスだな、と思える。この先、化けの皮が剥がれてきて本来の支持者であるべき多くの女性たちですら、敵に回してゆくことであろう。誤解のないように言っておくが私は、字義通りの意味における“男女共同参画”そのものには大いに賛成なのである。しかしその思想の裏側にある旧来のフェミニズムにおける厭らしさ、姑息さ、不健全さが大嫌いなのだ。男と女は協力し合い、補完しあい、お互いに社会のためにその個々の能力が十全に発揮されてゆくべきだ。しかし、そうはなっていないじゃないか。そうなっていないだけでなく、男と女はいがみ合う一方で、小さな子供を餓死させるような親が増えてくるなど社会は今や悲惨の極みではないか。もちろん何が悪いと一元的に決めつけることはできないが、為政者は誰一人として社会制度の在り方にも責任の一端があることすら認めようとせず、目を背けてばかりいる。これは突き詰めれば、前回にも述べた通り、中央官僚があまりにも大きな財布を握り締めていることからもたらされる必然なのだ。日本には脱官僚とともに脱フェミニズムも必要だ。私はフェミニズムと言えば、蜘蛛の巣を連想してしまう。下火にあるとは言え、日本にはフェミニズムの蜘蛛の巣だけはしっかりと張り巡らされている。だから決して油断はできない。蜘蛛は獲物を捕える巣を張った後は、その醜い姿(本性)を見せることなく巣の奥にじっと隠れている。しかし獲物が巣に掛かれば、電光石火の速さで現れて巣の奥に引きずり込んでしまう。そして美しくもたおやかで純白の巣だけが宙に光っている。皆さま方も、くれぐれも気をつけて。捕食者は雄と雌を選びません。雄であれ、雌であれ、油断すれば必ず食べられてしまうということです。時には穢れなき無垢な子供までが食べられてしまいます。そこには道徳など何一つ存在しません。たとえ悪意はなくとも、世の中は、そういう風にできているからです。