龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

最悪の一日 4/4

さて斯様に人生において自らの個性と付き合ってゆくことは誠に厄介であるが、そこに権力が介在すると問題は尚一層複雑になる。社会の活力や成長を促進するダイナミズムは整然と区画化された秩序体系からは生まれてこない。皆が皆、同じような感じ方、考え方をする社会では精神は閉塞感の中で飼い殺しになって当然である。現代において個性とは、管理体制に従順である限りにおいて、時にもてはやされ、大切にされている。一応、原則的に思想・良心の自由や表現の自由憲法で保障されていることになっているが、今の日本のように国がどうしようもなく弱体化してくると、国家権力はどうしても個人の内面に踏み込んでくることとなる。もちろん露骨な検閲や弾圧はできないであろうが、特定の対象を監視対象下において様々な方法で暗黙の圧力をかけたり、懐柔するようなことは日常的に行なわれることとなるであろう。コンピュータ監視法は当然に市民に対する言論統制も兼ねていると考えられる。マーキングされた要注意人物が監視対象者リストにファイリングされ、様々な法令を駆使して思想弾圧の目的で検挙されることも可能性としては有り得るであろう。先に私は、潔癖感が大人になるための妨げになると述べたが、日本は潔癖という名の雑菌を公然と撒き散らしているような国になり果てている。DVや痴漢という微罪を撲滅させるための狂気じみた執念、駐車違反の異様とも言える厳しい取締り、喜劇の如く繰り返される政治と金の問題に対する追求、人権を徹底的に無視した暴力団排除条例、これら様々なことはどれもそれぞれ違う分野に属する問題のようでありながら、国家権力の根幹の部分ではつながっていると思われる。通底していることは、市民生活の中から“猥雑性”を一掃させようとしている点だ。跡に残されるのは、綺麗に洗濯して折りたたまれ、整理箪笥に収納される下着の如き清潔な感受性だけである。そんな社会では自殺率が高くて当然である。何が猥雑で、何が潔癖か、そんなことは本当は誰にも画然と区別できるものではない。だからそのグレーゾーンの広がりが権力と利権の土台になっている。今の中国がそうであろうし、かつての日本もそうであったが国が成長している時には街中に猥雑なものが溢れていた。猥雑とは必ずしも不潔という意味ではない。管理化されていない剥き出しのエネルギーというか、聖俗さまざまな要素が入り混じった、そこに住む人間の生命力が感じられる原風景のようなものだと思う。今の日本には雑然とした風景は無数にあるであろうが、そこにはまったくエネルギーがない。お仕着せのような道徳と秩序があるだけだ。もちろん猥雑でさえあれば良いといったそんな単純なものではない。DVや痴漢行為が野放しにされ、一昔前のようにやくざが道の真ん中を肩で風を切って歩いている時代が良いという訳でもない。確かに時代は移り変わってゆくものであり我々市民はそれに合わせてゆかなければならないことも確かであろうが、今の日本は放っておけば、本当にジョージ・オーウェルの小説『1984年』のようになってしまうぞ。そういうことを感じ取れない人は、はっきり言って鈍感なのだと思う。先のバーテンダーAの話しに戻せば、Aは自宅で携帯にお客さんからメールが入っただけでも嫁さんが許してくれないとぼやいていた。Aはどう見ても浮気などできそうなタイプではないのである。どこにでもあるような話だが、これも行政が推し進める潔癖政策の歪んだ市民的反映と私は見ている。結婚してもセックスを拒絶する妻とか、今の時代そんな奇妙な話しばかりである。それで夫婦仲が悪くなって激しい喧嘩になると、ちょっと身体が当たった程度ですぐにDVだと訴えられる。DVに関してはこんな話しを聞いたことがある。3年ほど前に別のBARで飲んでいたところ、一人で飲みに来ていた女性から話しかけられた。(私はどういう訳か、バーで女性から声をかけられることがちょくちょくある。もちろん、もてているわけではない。)その女性は会計事務所に勤めるシングルマザーであった。その日、子供を近くに住んでいる実家の母親に預けて飲んでいたようだ。会話の流れで私は、「何で離婚したん。」と聞くと、その女性はよくぞ聞いてくれたとばかりに一瞬、目をきらりと輝かせて、「DVがあってん。」と言う。
「どんなDV?」
「鋏、突きつけられてん。」
「へえ・・・。切りつけられそうになったん?」
「ちゃうねん。髪の毛切られかけてん。」
私はずっこけて、スツールから滑り落ちそうになった。思わず、美容師か、と突っ込みたくなるのを余計なことを言わないよう何とか堪えて口をつぐんだものだ。確かに無理やり髪の毛を切られるのは、立派な暴力の一つであろうがその女性は実際には切られた訳ではないのである。今にも切られそうな恐怖があったということだけだ。その気持ちはわからないでもないが、離婚の理由として嬉々として言うことか。そこに至るまでの事情もあったであろうに。女性は私が世間並みの同情を示さないことに不満を持ったようだ。
「でも、やったらあかんことやろ。」と言う。
「まあ、確かにほめられた行為ではないわな。」
「実は今でもストーカーされてんねんで。」
と言うから、どんなストーカー行為かと聞くと、その女性が住んでいる家の玄関前に、元夫が子供用に買った新しい服とおもちゃを紙袋に入れて置いていくことだという。どれぐらいの頻度でその行為があるのかと聞くと、5ヶ月に1度くらいということであった。まるで漫才である。私は呆れて何も言えなくなってしまった。それをストーカーと言う神経が理解できない。いくら離婚していても、そこは感謝の気持ちを持って「有難う。」の一言くらいあってもよさそうなものではないか。決め付けるようにこういう事を言うのも何だが、その女性はおそらく誰と結婚していても“DV被害”による離婚と、その後の“ストーカー被害”を訴えていた可能性が高いと思う。その女性の思考回路に組み込まれたプログラミングが必然的な現実を生み出しているのである。プログラムのコマンドは“全ての男を敵と看做せ”ということになるのであろうか。こういう女性のよくわからない訴えであっても現実的には男性はすぐに警察に拘束されてしまうことになる。私はフェミニズムの男性支配が戦争や搾取を生み出す元凶であるとの思想を必ずしも全面的に否定するものではないが、それは国家権力の中枢レベルでの話しであって末端の善良な市民生活を破壊するものであってはならないと思う。権力とは無縁の一個人が戦争を引き起こせる訳がないのである。ところがフェミニズムは権力の中核部分で暗躍し男女共同参画などと莫大な予算を計上させながら、実は抑圧的な市民生活そのものを利権化しているに過ぎないのである。だから私はフェミニズムが嫌いなのだ。最近では一部の聡明な女性たちがこういう歪んだ女性論理が、決して女性のためになる思想ではないことに気づき始めている過渡期であると思われる。何にせよ本当に今の世の中は狂っている。突き詰めるにやはり日本という国家が政治的に独立し得ていないことの必然的な帰結だと思われるのである。アメリカの影響が強すぎて、国家としての自律的な良心が持てないから、その歪みの集積が市民生活の健全性を破壊してまで虚構を突き進むことになるのだ。いかにしてこれらの虚構に立ち向かい、我々は自らの魂を守るべきか。取り敢えず、言葉の石礫を投げつけるように「馬鹿やろう。」と言っておこう。