龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

微罪の効能

言葉の連呼には、魔術的な感化力がある。痴漢に拘るものではないが、地下鉄の駅構内などで何度も『痴漢は犯罪です』とアナウンスが、繰り返される。
一般的には、ほとんどの人々が自分には関係のないことと聞き流している。ところが、言葉と法律に敏感な感性を有するごく少数の人間にとっては、このアナウンスは、聞き捨てならないものがある。
なぜなら厳密に言えば、痴漢は犯罪ではない。刑法のどこにも痴漢という犯罪は書かれていない。刑法176条の強制わいせつ罪に該当するものでなければ、痴漢とは迷惑行為であり、迷惑防止条例違反で検挙されることになる。各都道府県が制定する迷惑防止条例とは、刑法には触れないが著しい“マナー違反”を取り締まるために制定された法律をいうのである。たとえば、タバコのポイ捨て違反で検挙された人を犯罪者と呼ぶべきであろうか。犯罪とマナー違反は、法律で取り締まられるものであっても、一線が画されるべきだ。マナーとは道徳の問題であり、犯罪行為は道徳と無関係である。思想犯によるテロリズムなどのように、正義は体制側にでは自分にあると考えていても、暴力に訴えれば犯罪として処罰されることになる。一方、マナー違反となるべき道徳の基準とは、その行為が不特定多数の公衆に多大なる不快感を与えるか、どうかである。痴漢とは、不快感を与えたことに対して罰せられる迷惑行為であり、問題はその“不快感”をどのように評価すべきかということだ。当然に不快指数のバラメーターは人それぞれに異なる。
因みに痴漢が、強制わいせつ罪と迷惑防止条例違反のどちらが適用されるかについての明確な基準はないが、下着の中に手を入れた場合が、強制わいせつ罪で、衣服の上から触った場合が迷惑防止条例違反となるとの見解がある。
下着の中に手を入れたり、あるいは衣服に手を差し入れて下着を触るような行為は、被害女性が嘘をついていないことが明白で、尚且つ目撃者が存在する場合には、犯罪として処罰されるのは当然だと思われる。それは明らかに不快のレベルを越えているからだ。しかし、衣服の上から触られたとか、あるいは、いや、偶然に当ったに過ぎないのだという、迷惑防止条例違反に属する範疇の問題は、女性が主張するところの不快感という極めて曖昧かつ主観的な判断に依拠するものであり、容疑者を何日間も拘束した挙句、中世の魔女裁判のごとく無理やり自白を強要しなければならない性質のものであろうか。
現在の司法関係者は、私が見るところ、痴漢冤罪はまったくないとは言えないものの、ほとんど限りなく0に近い程、例外的なケースであると考えているように見受けられる。しかし、果たして本当にそうであろうか。
私自身、こういう経験をしたことがある。もう7~8年前のことであるが、私は一人で街を歩いていた。どこかの店か場所を探しながら、ぶらぶらと歩いていたように記憶している。正面を見ていなかったので、おそらく真っ直ぐに歩けていなかったのであろう。人間、歩く時には自然と手を前後に軽く振っている。私の振り下ろした左手が偶然に、いつの間にか私の左横近くにいた若い女性の右手の掌に当るというよりも、すっと手を握るような格好になってしまった。私は驚いて、あれれと思う間もなく、その若い女性は、一言『もう!』と吐き捨てるように呟いて、すたすたと早足で行き去った。その女性は、道を歩いていて、いきなり見知らぬ男に手を繋がれたと思ったようだ。しかしである。私は、きょろきょろしながら歩いていたので気付かなくても当然だと言えるが、その女性は一人で前を見ながら歩いていたのだから、私が近付いて来ていたのがわかっていても良さそうなものである。見知らぬ男が近付いてくれば、さっと身をかわせば良かったのだ。“鈍感な女だな”と、その時、私は思った。
もちろん街で道を歩いている時と、電車内でじっとしている時とでは状況が全然違うので単純には比較できないが、手を繋がれたと錯覚した若い女性は、不快感を感じたから『もう!』と怒ったのだ。しかし仮にその若い女性が、中年のおばさんであれば、『もう!』ではなく、にこっと微笑を投げかけてきてくれたかも知れない。『もう!』と微笑みの境界にある年齢が何歳かまで、私は言及するつもりはないが、そのような主観的な不快感に国家権力が介入すべきであろうか。ごく普通の常識的な感性を有している女性であれば、この程度の『もう!』で、痴漢されたと騒ぎ立てることは先ず有り得ない。
しかし、『痴漢は犯罪です』と何百回、何千回と魔術的なアナウンスを聞かされる続けると何千人、あるいは何万人に一人の女性は、この程度の『もう!』で、痴漢された、と訴えることになるであろう。これは、ブラシーボ効果同様の人間心理の必然である。『痴漢は犯罪です』は、大衆に対する正しいメッセージではない。正確には、『痴漢は犯罪ではありません。しかし我々警察は、痴漢を犯罪として取り締まります。』と言っているのである。駅構内で流されている痴漢撲滅のメッセージは警察が要請しているものである。
女性の、性的被害やDVなどの暴力などの訴えにおいて嘘や間違いが有り得ないという決め付けは、私は女性蔑視の裏返しであると思っている。当たり前のことであるが、男であれ、女であれ、人間とは時と状況に応じて嘘をつく生き物である。嘘とまでいかなくとも、事実を誇張したり歪曲して伝えようとする特性は男女間で差のあるものではない。女性の性的被害と暴力の訴えを、事実検証もせずに100%全面的かつ無条件に警察などの権力が受け入れて、容疑者男性を拷問のように追い込む取調べは、日本の国家権力のどのような性質に照応するものであろうか。
一昔前のCMのキャッチフレーズに“亭主元気で、留守が良い”と主婦が能天気に口ずさむものがあった。今の時代にもよく似たものは無数にある。受け止め方は人それぞれであろうが、私は大衆女性の、正直で通俗的な感性を表現したものというよりは、そのように男性を面白おかしく卑しめておいて方が、世の中が無難に丸く治まる、という為政者の感性に寄り添うものであると考えている。今さら、敢えて指摘するまでもないことであるが、日本は外交交渉において、まったく国家の尊厳や威厳を保つことが出来ないでここまできている。尖閣諸島沖の中国漁船問題などにおいても見られたように、外圧がかかれば極めて簡単に法の筋道を曲げる国である。ODAの実績や国際会議での体面などの外見ばかりを気に掛けて、国内においては大衆を抑圧的に統治することで何とか総体的な国家の威信をつなぎとめようとする。ここまで言えば、おわかりかと思うが、日本という国そのものがDV的なのである。日本の国家権力の体質がDV的であるからこそ、その本質を隠すために、痴漢やDVなどの微罪に依存し、流され堕ちてゆくこととなるのだ。強者に弱く、弱者に強い。外に弱く、内に強い。菅直人などは、その象徴的な人物である。
前回、前々回に書いた、鉄道企業におけるID認識システムの採用はなぜ、これだけ変革の激しい時代にあって、これまで具体的に検討もされてこなかったのか。20年前ならともかく、10年前には実現されていても良さそうなものである。それだけの技術力と資金は備わっているはずである。考えられることは、駅構内から券売機が一掃されて、改札機がコンピュータの端末となれば、各駅に常駐する駅員は今の半分位で間に合うようになるであろう。大規模な人員削減が避けて通れないということだ。また痴漢と言う迷惑行為が、日本からなくなってしまえば、警察は鉄道企業に『痴漢は犯罪です』と魔術的なアナウンスを流させ続けることができなくなり、それはつまり日本の国内的な統治能力を弱体化させることになる。もちろん駅員や警察官の誰一人として、そのような意識は持っていない。しかし、そんなことを言うのであれば太古の昔、地球上に鳥類が存在しなかった時代に、地上を這い回っていたとかげなどの爬虫類たちの中で、自分たちの子孫の前足が翼に変化して空を飛びまわることになると考えた個体が一匹でもいたであろうか。これからの日本の空に何を羽ばたかせるかは、我々一般市民の意識次第だということだ。