龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

マスコミの言論統制

それでは具体的に検証したいが、特定秘密保護法によって反対論者が主張するように、表現の自由が制限された息苦しい監視社会となるのであろうか。私にはその論拠がわからない。そこにあるのは漠然とした否定的なイメージ誘導だけである。戦前の治安維持法における思想弾圧やジョージ・オーウェルの小説『1984年』に描かれたような監視社会が再来するかのような不安感だけが一人歩きしている。確かに本当にそのような暗黒社会になる必然性が高いのであればそれは大変に問題である。しかしマスコミ主導による反対のためのイメージ誘導と、法そのものに内在する危険性は冷静に区別して判断されなければならない。そこにこそ本当の知性が要求されるものである。先ず最初にはっきりさせておかなければならないことは、国家権力の下で、誤った運用の仕方をすれば危険になり得るというレベルで見れば、どんな法律でも同じである。現状においても無実の人間が逮捕されたり、死刑が確定されて何年も経ってから冤罪が証明されたケースもある。あってはならないことではあるが、法治国家においては、しかるべき適正な手続きと処置さえ踏まえられれば、権力によって真実が歪められたり、人権蹂躙の結果となり得るものである。それは既存の法律であっても何ら変わりないものである。しかし果たしてその法律が、そうならざるを得ない必然性を有しているかどうかである。運用のされ方と法そのものが内在している危険性は厳密に区別されなければならないということだ。特定秘密保護法は誤った運用のなされ方が行われる可能性が高いという理屈だけでは、DV法や迷惑防止条例による痴漢の検挙と同じであり、秘密保護法だけを特別扱いする理由にはならない。法律が目的(たとえば女性への暴力や痴漢行為を撲滅するということ)とするところの「正義」が正しいのであれば、運用のされ方で冤罪が発生したからと言って、その法律そのものが、否定されたり廃止されたりすることがないのと同等の視点で、我々は秘密保護法をも考える必要があるということだ。これはダメだけど、あれは問題ないと言うのであれば、その視点こそが恣意的な偏りであり、法律の善悪を論ずる資格がないとも言える。さて、そのように論理的によく考えれば見えてくることがある。秘密保護法がそもそもの目的とするところは、第一章、第一条の冒頭で述べられている通り、「我が国の安全保障に関する情報のうち、特に秘匿することが必要であるものについて、これを的確に保護する体制を確立」ということである。言ってみれば、この部分が、DV法のおける女性への暴力を撲滅するとか、迷惑防止条例による痴漢被害をなくすことの目的と同等の、法律そのものの趣旨と言うか存在意義なのである。よって、そもそもこの目的そのものを否定するのであれば「慎重」も何も、議論にすらならないものであるが、朝日や毎日などの左翼言論(保守的な言論も多少はその傾向があるであろうが)は、はっきりとは言わないがどうもこの目的そのものを否定し、反対しているように思われる節があることをはっきりさせておかなければならない。そうであれば、思想の弾圧がなされたり、表現の自由が制限されるとか、息詰まるような監視社会になるという警告は、本来であれば法の目的や存在意義と明確に区別して論ぜられるべき問題が一緒くたに混同されているという点において、報道による世論操作が広範になされていることの論拠となるものであり、皮肉なことではあるが逆説的にマスコミ報道によるある種の全体主義が体現されていることを自ら証明しているのと同じである。今回の採決に際して維新の会やみんなの党などの野党は、自民党の進め方が強引過ぎると言って反対に回ったが、そもそもは修正協議などでの合意に見られるように、この法律そのものの必要性は認めていたものである。一部のマスコミは、それら野党の立場に同調するように議論や慎重さが足りないことを理由としてこの法案成立を激しく批判していたものであるが、そもそもこの法律の目的を認めるかどうかを曖昧にしたまま、法律の副次的な危険性の不安感を社会に広く醸成させるようなやり方は、私から見れば、それ自体がマスコミ権力による民主主義への軽視であり、大いなる言論統制である。まずそのことをはっきりさせなければ、この法律について公正な立場で批評することが出来ないことを述べておきたい。次回に続く。