龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

秘密保護法は悪法なのか。

反対する人々にとっては、希代の悪法と称せられる特定秘密保護法がついに成立した。改めて法案の全文に目を通して見たものであるが、どうなのであろうか。個人的な印象で敢えて不安点を指摘するとすれば、外交においていわゆる売国的な政治姿勢や、隣国への無意味なすり寄りでしかない経済援助を国民の目から隠すためにこの法律を悪用して欲しくないということはある。まさかそこまではとも思うが、しかし今回の法案決議に断固反対するパフォーマンスを見せていた民主党などが、万が一にも将来的に政権復帰する事態となれば、平気でそういうことをやりかねないし、朝日や毎日などの左翼言論も喜ばせることにしかならないから、とにかく民主党のような何を考えているのか訳のわからないような政党は、全国民が一致協力して消滅させていく方向で努力する必要性があるといえる。それ以外の点については、全般的に言えば、やはりこの法律はマスコミの社会的地位や影響力を大きく殺ぐものであるが、またそれゆえに嵐のような反対活動が見られたものであるが、一般の国民的な立場で見れば何も変わりはないし、国益に鑑みても、その必要性は否定できないものである。その証拠に反対していたほとんどの野党も全面的に法案を否定していた訳ではなく、議論が足りないとか、もっと慎重に進めるべきだなどと叫んでいたが、政治の場における「慎重」という言葉が、時間切れを狙った白紙化の意味しか持ち得ないことが明らかなのであれば、最終的に採決を取るのは当然のことであり、それを数の暴挙というのであれば民主主義の否定以外の何物でもない。一部のマスコミも同様であるが、一方で「本質的にテロとあまり変わりない」群集デモを盛んに煽り立てておいて、民主主義の正当な手続きに沿った採決を民主主義の冒涜だなどと批判するのは笑止千万の矛盾でしかあり得ない。今回の騒動は本質的には、政治の側にそうした意図があったかどうかは別としても(なかったと思うが)、マスコミ勢力と政治とのあくまでも国内的な権力闘争なのである。つまり特定秘密保護法は、これまでの権力構造の断面を書き換える性質を有しているということである。特定秘密が安全保障の名の下で、与党内部の政治と官僚と適合事業者に囲い込まれてしまって、マスコミがある事柄に対して徹底的に追及出来なくなってしまう可能性が高いことは事実である。しかし一般的な国民を代表した一つの意見としては、マスコミにこう言いたい。これまでのマスコミの政治への追及報道によって、その情報開示と大衆議論によって、戦後のこれまでの日本の民主主義を総括すれば、本当に正しい方向に進んできたと言えるのであろうか。そこにあるのは私が何度も繰り返し述べるように、特権階級のマスコミの恣意的な政治介入による、外延的に政治化され、政治と内部構造的に一体に連なったマスコミの姿しかないのではないのか。マスコミは市民感覚も国民の利益も何一つとして代表させはしていないのである。マスコミの論調は、マスコミ権益を導くために一般の国民を利用して、政治に介入してきただけである。もちろん全てがそうだとは言わないが、その割合が非常に大きいし、また近年は特にその傾向が増してきていると見れる。よってこのような法律が新しく出来ることは時代の要請であると同時に、マスコミにとってはある意味において自業自得なのである。しかしこの法律が基本的人権の蹂躙や「知る権利」の否定につながるかと言えば、私にはそうは思えない。まず民主主義の下における情報開示と国益の関連性について考察したいが、なんでもかんでも情報を開示して、単層の平面的に大衆議論の俎上に乗せれば、世の中は良くなっていくのであろうか。いや、これまで良くなってきたのか。そうではないであろう。議論の意義を否定する訳ではないが、情報は重層的に管理されて、その各層に相応しい議論が繰り返され、またその各層の議論が機能的に集約され政治に生かされてこそ国益になると考えられるものである。つまり民主主義や大衆議論とは、その時代に合った一つの流れと言うか、方向性が必要不可欠だと思われるのである。よってそのような重層的な情報管理、議論の視点で見れば、機密事項が保全されている体制は当然であると言える。国益のための秘密と国益のための開示、議論は表裏一体である。国益というベクトルで秘密と開示が同じ方向に向いていれば最終的にはそれで正しいのだと思う。アメリカなどの欧米諸国は全てそういう性質の民主主義である。ところが現状の日本はどうかと言えば、一面的にばっと国家権力を否定するための反国家的な情報開示というか暴露しかなくて、議論の在り方も徐々にでも国益向上に結び付いてゆく洗練されたものではなく、国家対反国家みたいな極めて大雑把な大衆議論をいつまでも延々とやっていることとなっている。そこには国民利益とはどこまでも背離した、マスコミのマスコミによるマスコミのための本質的には幼稚な民主主義しか存在し得ない社会環境であると言えよう。「朝まで生テレビ」のような下らない討論番組がその象徴であるが、あのような司会者だけが一人で悦に入っているような討論を何千回、何万回繰り返そうが、日本と言う国は何一つ良くはなっていかないであろうし、実際に良くはなってこなかったではないか。わかりやすく言えば、建設的な議論ではないということだ。否定のための議論、つまり国家権力を否定したり反対するためだけの議論を繰り返すことは、そういう議論に参加している一部の人々だけが高揚した幸福感に包まれているだけで、決してどのような意味合いにおいても社会改善には結びついて行かないものである。日本人はこの機会を一つの転機として、国益追求の真に正しく、効果的な民主主義の在り方と言うものを特定秘密との関連において、総合的にそしてこれまでの常識というかマスコミの洗脳に惑わされることなく主体的に考えていくべきである。次回に続く。