龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本型民主主義の経緯と事情

いつもながらのバカ騒ぎである。安保法制に対する反対運動は、政治信条とか理念、社会正義などはほとんど関係ない。その実態は、踊る阿呆に見る阿呆である。お祭り騒ぎなのだ。それも自然に発生したお祭りではなく、恒例の意図された日本の「虚構」民主主義に必要な儀式なのだ。この指摘が言わんとするところがどれだけの大衆が深く理解出来るか、それが日本という国家が乗り越えなければならない、とてつもなく困難な国民精神の軛である。
日本の民主主義とは作られたものである。終戦直後だけでなく、終戦直後にGHQによってWGIPという洗脳工作が実施されたものが、年月の経過とともにその本体が見えなくなったまま、日本人が自主的に考え、保持しようとしているが如き精神構造となって一人歩きしているものである。WGIPとはWar Guilt Information Program の略称で「戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるための宣伝工作」ということである。当然日本のマスコミは、その工作活動の先頭に立って大衆を導くようにGHQによって構築されたのである。終戦直後は連合国や戦前の日本の思想を肯定するような著作物は幅広く検閲され、米国に都合のよい民主主義体制が徹底的な情報管理の下で、日本国内に作り上げられてきたものである。現在では戦後70年経過しているので、言論の自由や民主主義の大義名分の元、国民精神が洗脳され、作り上げられてきた経緯や変遷が見え難くはなっているが、今日の日本人の考え方や政治的議論の対立軸そのものがWGIPの延長上に位置していることは厳然とした事実である。大手新聞社やTV放送局などが日本の資本主義体制という食物連鎖の最上位に鎮座して、高給を得る地位にあるのも、大衆を洗脳して日本の社会体制を一定に維持するという重要な役割を担わされているということに淵源しているのだ。朝日新聞日経新聞が左翼系だから反権力の平和主義であり、読売新聞や産経新聞保守系ナショナリズム路線であるなどと、そういう単純な区分の問題ではないのである。その構図そのものが、つまりは日本の民主主義の全体像は戦後に米国によって設計されたものであるのだが、時の経過の中で虚構に過ぎないものが本物であるかのような、いや本物でなければならないとする信念体系にすり替わってしまっているのだ。洗脳というものは、外部から押し付けられ操作されているものを、自己の内部からの発動であると深く思い込んで、その思考が自己同一性の土台となることである。宗教も政治もその原理は同じである。私が何度も主張することだが、右翼も左翼もないのである。右翼も左翼も含めて、日本の精神全体が洗脳という沼の中に沈み込んでしまっているのだ。この沼からの脱出は非常に困難という以上に、ほとんど不可能ですらないかとも思われるものである。かつてのオウム真理教の信者どころのレベルではないであろう。その困難さは米国の統治とか外交上の圧力などという要因から、日本国内のマスコミの影響力や権益といった内政問題に移行してきているものである。なぜなら憲法改正などとも関連することだが、憲法改正をするためには国民は一旦、戦後の日本の民主主義が壮大な「虚構」であったことを認めなければならない。その手順を踏まずに憲法改正には踏み込んだところで、最終的にはその必要性があるのかという根本的な疑問に行き着かざるを得ないからだ。そして国防上の環境変化や、現在の日本国憲法が敗戦直後に米国の主導で急拵えされたものであるからなどという理由ではなく、戦後の日本の民主主義が実は虚構であったと認めざるを得ない必然性が生じるということなのである。安倍総理が、国民的議論がどうのこうのと言い訳して憲法改正に突き進まずに、解釈の変更で済ませようとしている理由もこういうところにある。そして戦後の民主主義が虚構であることを認めることは、政治よりもマスコミ組織(特に朝日新聞などの左翼系)にとってこそ、絶対に受け入れられない自己否定であり、まさに存立の危機を迎えることを意味する事態となる。なぜなら言うまでもないことだが、米国の指示でWGIPプログラムを率先していた報道機関であることが社会に広く認識されてしまえば、憲法改正が為された時点で実質的に存在価値がなくなるからである。保守系のマスコミもWGIPに参加していたという点ではまったく同じなのだが、朝日や毎日などの存在意義というものはほとんどその部分にしかないのだから当然である。よって今日の日本の現状を概観するに、戦争直後のアメリカによる統治から、その流れを引き継ぐようにマスコミによるマスコミの権益を守るための大衆支配、洗脳へと微妙にそして明確に民主主義の実態は変遷してきているということなのである。今の安保法制にしてもそうだが、この法案を認めればアメリカの戦争に巻き込まれるだけだとか、アメリカのために日本の国益を放棄したものであるなどと批判するが、そうであるならそもそも日本がアメリカの支配から離れて自主的に自国の政策を決めれるような国になるための第一歩を踏み出さなければならないはずであるが、何故かそういう思考回路にはならないのである。いつまでも同じところを回転木馬のようにぐるぐると堂々巡りをしているだけである。繰り返すが、それもこれもは全ては戦後の米国の統治から、主に日本のマスコミによる大衆支配へとバトンタッチされるように受け継がれてきている日本の特殊構造にあるのであって、非常に錯綜していてとてもではないが一筋縄では解決に至らない課題である。安保法案採決への混乱などという状況も日本の虚構民主主義を賦活するためのお祭り騒ぎであると同時に、洗脳の沼深く沈みこんでしまって身動きが取れなくなっている国民精神の盲目を映し出しているものである。