龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

政治とプロレスの類似性

まるで開戦前夜のような騒動であったな。馬鹿馬鹿しい。自国の防衛力を強化するための法案がなぜ、すわ戦争ということになるのか、その単細胞ぶりは不可思議を通り越して滑稽ですらある。私はこの馬鹿騒ぎを横目に見ていて思い出すことがある。プロレス論争である。私が中学生の頃のことであるが、プロレスは果たして八百長なのか、真剣勝負なのかという対立があった。当時のプロレスは新日本と全日本という二つの団体に分かれていて、TVでも毎週、定時に放送されていた。今、報道ステーションの司会をしている古舘伊知郎さんがアナウンサーとして、アンドレ・ザ・ジャイアントのことを「人間山脈」などと形容しつつ実況中継していたころのことである。プロレスに傾倒している一派は、プロレスは紛れもない真剣勝負であって、八百長などとは神聖なプロレスに対する冒涜だなどと息巻いていたものだが、八百長派はそういうプロレスファンの盲信ぶりを正にプロレスの試合を白々しく見るような目で楽しんでいた向きがあった。
さてそれでは、中学生ならぬ現在の日本の大人たちに問い掛けたい。日本の政治は果たして真剣勝負なのか、八百長なのか。さあ、さあこの素朴な疑問こそは、資本家の走狗の如き知識人たちに朝まで徹夜で議論していただきたいテーマである。皆さんはどのように思われるであろうか。私に言わせれば昔のプロレスも今の日本の政治も非常に似通っていて、八百長なのか真剣勝負なのか、その線引きは微妙で難しいところがある。真剣勝負だと言えば、真剣勝負であるが、八百長と言えば八百長なのである。双方の要素が混じって成り立っているパフォーマンスであり、純粋にどちらか一方であると決め付けることはできない。八百長の要素を多分に含んだ真剣勝負であるということも出来るし、反対に真剣勝負の要素を含んだ八百長であるとも見れる。そのどちらの表現がより実情に即しているかと言えば、その時々の政治マターにもよるであろうし、人の見方も様々であろうが、私は総じて言えば、後者の方が妥当だと考えるものである。日本の政治は、真剣勝負を内部に含んで喧々諤々とやり合っているが、大枠では明らかに八百長なのである。プロレスで言えば、こういう技が繰り出されてきた場合には、こういう風に受け止めてこういう技で反撃するとか、こういう場面では相手の攻撃を真正面から受け止めずに間一髪でかわして観客を沸かせるとか、そういう暗黙の取り決めが双方に了解されての上で、さらに言えば最終的な勝負の決着の付け方も大体のところは決められた上で、そのプロセスを真剣勝負で演じて見せる興行なのだ。日本の(諸外国はどうかはわからないが)民主政治は、まさにプロレス的なのである。この辺の見極めが大衆にどこまで出来るかということで、日本の民主政治のレベルが決定されるのである。そういう意味では安保法案に反対するために国会議事堂前に集まってデモ活動をしている人々は、私から見ればプロレスの場外乱闘に興奮しつつ選手に触ったり、物を投げつけたりしながら喜んでいるファンと何ら変わらないものである。はっきり言えば程度が低いのだ。少なくとも国民だけは、もう少し冷静で知的な見方が政治に対してできないものかと悲しいばかりである。もちろん常に国民を巻き込もうとする政治やマスコミ、そして一部の扇動者が原因でこういうことになるのであるが。昔のプロレスが完全に八百長とは言わないまでも、八百長の要素を多分に含んでいた理由は、ボクシングの世界戦のように100%の真剣勝負で毎週のように戦っていては、いかに強靭な肉体の持ち主であるプロレスラーといえども身体が持たないからである。それは実は日本の政治にも言えることであって、真剣勝負でやり合っていては日本の民主制度や秩序が保ち得ないということに尽きるのだ。だから自然と八百長に流れる。選挙でも不正が行われ得る。それではなぜ日本は100%の真剣勝負を耐え得る力を持つことができないのか、デモに参加している暇があるのであれば、そういうことを真剣に考えなければならないはずであるが、まあ何を言っても無駄であろう。ごく少数であっても、私はわかる人間、考えるべき人間にこういう日本の根本的な問題を私と共に追求していって欲しいと思う。