龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

集団的自衛権について

それでは集団的自衛権についてどう考えるべきなのかということであるが、これは微妙な問題ではあるが、先ず安倍総理は、一体、どういう思惑なのであろうか、ということがある。集団的自衛権の解釈だけ変更させて、憲法改正は諦めてしまったのであろうか。政治家の真意というものは、本音の部分は推し量り難いところがあるが、私はそうではないと思うのである。恐らくは、安倍総理集団的自衛権の解釈変更の先には、現時点でははっきりととまでは言えないにせよ、おぼろげに憲法改正を目論んでいるのだと思う。集団的自衛権の行使容認によって半ばなし崩し的に、あるいはそれを足掛かりにして、憲法9条改正に結び付けようと考えていることは、ほぼ間違いないと思う。なぜ憲法改正が先ではないのか、事の筋道からすれば、法律の中身を変質させてから、外殻としての法律そのものを改定するようなやり方は、誠にもって邪道である。邪道であるとしか言いようがないが、それゆえに私も心情的には賛成しかねるし、また私が前回に述べた憲法改正の意義というものと合わせて考えていただければ理解していただけるであろうが、集団的自衛権の行使容認とは結局のところは米国に恭順の意を示すだけのものであり、日本の真の自立、独立の目的からは程遠いものであると見れる。しかし近視眼的にはそういうことになるかも知れないが、こういう問題はもっと長い時間軸で総合的に考慮して、あくまでも現実的に対処していかなければならないのだと思う。政治と言うものは、理想通りにいくことはほとんどあり得ないし、綺麗事ではなく現実との妥協の産物として一つの解を選択していかなければならない方程式のようなものであるとも言える。今の日本において憲法改正だけを優先して推し進めようとしても、恐らくは無理であろう。なぜかと言えば、一言で言えば、日本はいろいろな意味でそういう国なのである。そういう国を、別のこういう国に作り替えることは並大抵ではない。純粋に政治思想の問題として追及していたのでは、今後、50年の年月を費やしたとしても憲法改正には至らないであろう。しかし一つの大きな流れの中で、不可抗力の出来事として、不可避的に変化してゆく世界を受け入れることに関しては、日本人や日本と言う国は妙に従順なところがある。想定される集団的自衛権の行使容認から憲法改正への流れも、非常に邪道ではあるが、そのような手順でしか日本と言う国は、戦後のぐちゃぐちゃとした束縛から生まれ変われないということに尽きるのではなかろうか。そういう意味では安倍総理の政治手腕は、その時々において決してベストではないにせよ、より現実的でベターな政策を打ち出し、推進させようとしている点において、優れていると言えるかどうかはともかく、ある程度の評価はせざるを得ないという気はする。民主党政権時の幼稚な政治とは比べものにならないということだけは確かであろう。繰り返し述べるように、私は個人的には、集団的自衛権について積極的には賛成しかねるものである。米国が中東付近で起こした新たな戦争に日本が同盟国として派兵しなければならないような法律には決してすべきではない。よって日本が海外で戦争をすることを許すような法律を認めるべきではないという主張もわからないではない。しかし現実問題として中国の軍事的な脅威の増大が、日本の平和と安全の前に立ちはだかっているのである。尖閣諸島を中国が武力で奪還しようとして、米軍が日米安保を適用して、中国と米国が戦闘状態になった時に、護憲派の人々は、日本は平和憲法を順守すべき特別な国だから、一切、戦闘に関わり合うことなく傍観しているべきであり、中国と米国は勝手にやり合ってくださいとでも言うつもりなのであろうか。それでは常識的に考えても話しにならないであろうし、仮に日本がそういう立場を堅持するのであれば、いざという時に本当に米国が日米安保を適用し、兵員の命の危険を冒してまで中国と一戦を交える気持ちになるであろうか。有事の際には日本の態度次第で、米国が中国の暴挙を政治的な妥協で容認してしまう可能性も大いにあり得ることなのである。やはり日本は日本の有事に際しては、米軍と共に戦う意思を示し、その能力も蓄えておく必要性はあると思う。実際にその時に日本がどのような行動を取るかは別問題であるが、あくまで可能性の問題としてもそのような緊急事態に対処する意思と能力が、平時における外交の力関係を規定していることは世界の常識である。話し合いで解決云々ということは、話し合いで解決し得る比較的良好な関係が前提になってのことであって、当たり前のことではあるが、国内はともかく世界では話し合いという手段は万能ではないのである。話し合い、訴訟、圧力、武力この4つの手段を、時と場合に応じて使い分け出来る主体が国家の本来の姿である。中国の脅威がある限り、現実問題とすれば、集団的自衛権の行使は邪道であろうが何であろうが認めざるを得ないということだ。それが日本の現実なのだ。