龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

思想なき公明党の特殊性

公明党は、本当に困った政党である。大体、元から何を考えているのかよくわからない不気味なところがある。党としての基本的な政策とか、国家観というものを持っているのだろうか。消費税増税法案の時もそうだったが、一応は、庶民の側の立場を代表するかのように、何やかんやと意見して、一定の存在感を示そうとはするものの、結局はそれだけが目的のパフォーマンスとしか考えられないものであった。今般の集団的自衛権に関しても同様である。連立与党の枠組みの中で自民党案に対して反対の姿勢を示し、あたかも抑制するような立場を演じているが、その根拠となる論理的、具体的な考え方というものがまったく伝わってこない。山口代表は「国民的議論を深く、広く進める必要がある。」などと、いかにも民主政治の優等生的な発言をしているが、それでは公明党の考えというものが見えてこない。埋没しないように、離脱しないようにバランスを保っているつもりかも知れないが、それは単に公明党の事情というものであって、当たり前のことではあるが中国の脅威というものは、日本の国民的議論の進展を悠長に待ってはくれないものである。いつ突発的に有事が発生するのかわからないのである。現下の法律において、緊急事態に突入した時に、どのようなレベルの状況で、どのような対応を日本政府が成し得るかについて、公明党は具体的に説明できるのか。そういう危機管理を先ず全ての国民に対して、不安のないように理路整然と説明することが、政権与党としての責任ではないのか。それを、国民的議論を深く広くなどとは、主客転倒も甚だしいものである。それを言うのであれば、国民的議論を深く広く進めるべき対象は、公明党の特殊性についてではないのか。言うまでもなく公明党とは、巨大な宗教団体である創価学会を支持母体(というより部外者から見ればほぼ一体であるが)とする政党である。「創価学会」、または「学会」、ああ何と、いやな響きであろうか。この言葉の響きを思案する時に、沈没船の船室に取り残されたような気分になるのは私だけであろうか。偏見で言っているのではない。何度か聖教新聞を見たことのある人ならわかるであろうが、基本的に創価学会という組織は、中国や韓国が主張するところの日本の戦争責任というものを基底に据えて、アジア重視の友好関係を促進しようとするイデオロギーを有している。アジア重視が悪いと言っているのではない。また、韓国や中国などの近隣諸国と仲良くしようとする姿勢も、日本の国益が犠牲になるのでなければ(現実的にはほとんどが犠牲になされているが)、理想とすれば美しいし、間違っているとも言えないものである。しかしそれと中国の軍事的な脅威の増大という、日本にとって決して無視できない国際政治の懸案はまったく別の問題である。公明党が、創価学会の理想に寄り添うように中国を敵対視することを忌避し、中国の軍事的な脅威を認めようとしないのであれば、現実を無視しているのと同じである。これは政教分離がなされていないことの弊害そのものではないのか。自民党は、そのような弊害によって国民の生命と安全が潜在的に危険に晒され続けることと、創価学会の選挙時における集票能力の有り難さを天秤に掛けて、その重さの意味をよく吟味するがよい。