龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

集団的自衛権行使と日本の危うさ

少し心配になってきた。集団的自衛権の行使容認について、憲法改正や戦後の日本の民主主義との関連から、思うところの私見を述べてきた。考えが変わったと言う訳でもないが、最初に断った通り、私は基本的には米国に恭順の意を示すための憲法解釈の変更には賛成ではないのである。本来は、日本が真の独立国家、民主主義社会に生まれ変わるためには、憲法改正、自主憲法の制定が必要不可欠だと思われるものであるが、日本と言う国のある種の特殊性ゆえに、邪道なやり方ではあるが憲法9条の解釈を部分的に変更し、無効化させることによって本格的な憲法改正への足掛かりというか、過渡的な措置とせざるを得ないと考えるものである。またその方法によらなければ、日本にとっては非常に憂慮すべき問題である、年々、増大し続ける中国の軍事的な脅威に対して、一定の抑止力を働かせたり、危機管理をなすことが不可能であることも事実であろう。ここまでは、これまでに述べたとおりである。では何が心配になってきたのかと言えば、安倍総理があまりにしきりに日米関係強化の必要性を強調し過ぎることである。日米安保の重要性は、今更、言うまでもないことではあるが、米国に従属化し過ぎることもまた危険なのである。そもそも本来は、そのために、つまり日本が米国に対する完全なる従属から離脱し、健全な関係性を再構築するために憲法改正が企図されるべきであって、その独立精神が欠落したままに、見掛けも中身も邪道そのままに、米国の属国としての深度をより一層、深める目的だけで、集団的自衛権の解釈変更がなされるのであれば、日本は将来に何の展望も開けない袋小路の地獄に陥ってゆくだけのことである。その点において、安倍総理の政治的な見識や志と言うものは、どうも怪しいと言うべきか、信じ切れないところがある。信じ切れないという以上に、騙されているかも知れないという疑心も正直なところ心の内に起こってきて、とにかく心配なのである。集団的自衛権の容認は、一夜にして日本の自衛隊が、アメリカのために戦う軍隊に変貌する危険性を孕んでいる。日本は、アメリカから派兵を要請されて拒否できるであろうか。様々な状況があり得るであろうが、日本近海での有事ということに限定すれば、確かに日本の国防に役立つであろう。しかしそれ以外の地域に関しては集団的自衛権の性質は、日本のアメリカに対する、拒否し得ない義務に転じてしまう可能性が高い。それも今のオバマ大統領の就任中はともかくも、次に共和党から新しい大統領が誕生すれば、これまた非常に恐ろしいことである。アメリカの共和党という政党は、陰謀と深く結びついていて何をするかわからないところがある。特に戦争好きのブッシュ一族から、また新大統領が登場すれば、集団的自衛権という大義の下で、日本はどのような事態に巻き込まれるか、想像もつかないところがある。それにも増して、「自衛」という概念そのものが、そもそも非常に曖昧である。極論すれば、全ての戦争は、自衛のための戦争なのである。かつての日本の太平洋戦争においても、1941年12月8日の真珠湾攻撃が契機となったものであるが、当時のルーズベルト大統領が、事前に真珠湾攻撃の情報を知っていて敢えて日本の攻撃を受け入れたことは陰謀論というよりも、ほぼ歴史的な定説である。もっと言えば、巧妙に日本に攻撃させるようにアメリカが仕向けたとする見方も決して荒唐無稽とは言えないものである。2001年の9・11事件からイラク戦争への流れも同様であり、戦争と言うものは深層においては何が起こっているのか伺い知れない部分は確かにあって、単に同盟国が攻撃されたから、自国への攻撃と見做して応戦します、というレベルで動いていると、どんな破滅的な事態に流れ込んでいくか、わかったものではない。我が国には、まともな諜報組織一つすらないということも大きな原因であるが、今更、一朝一夕にどうにかなるものでもないであろう。そういう風に考えていくと平和思想も素晴らしいのかも知れないが、基本的な危機管理の出来ていない日本とは、日本人にとって本当は、非常に困った国なのである。たとえば戦争好きのように見えるアメリカにしても、アメリカの大統領は、実は自分の権限だけで戦争をすることは認められていないのである。きちんと議会の承認を得て、国民の支持も取り付けなければならない。だからこそ戦争に突き進むためのそれなりの仕掛けというか陰謀が必要になってくる訳だが、一応は、民主的な体裁は表面的には整えられているのである。ところが日本の政治は、「国民的議論が必要だ」とか何とか尤もらしいことを普段は主張していても、いざ、アメリカから軍事的な援助を要請されれば、国会での審議も何も、国民の見えない所で唯々諾々と派兵や援軍を決定してしまうこととなることは、ほぼ目に見えていることである。日本のマスコミにしても、朝日や毎日は集団的自衛権に反対しているが、アメリカへの攻撃に対して日本がアメリカを守ろうとすること自体には反対している訳ではないのである。集団的自衛権ではなく、個別的自衛権の延長で対応せよと言っているのである。しかし集団的自衛権と個別的自衛権の区分にこだわることに何の意味があるのだろうか。結局、やろうとしている行為は同じではないのか。これだけを見ても、いかに戦後の日本の民主主義が、アメリカから押し付けられた土俵の枠内で無意味な議論に終始している性質のものであるかがわかるであろう。現実に中国の脅威と言うものがあるから、日米関係の重要性は否定できないものであるが、最終的には日本が真の独立国家となってアメリカの支配から離脱しないことには、少なくとも日本の国全体でその精神を持たなければ、日本の危うさと言う要因はどこまでも堂々巡りのように、ストーカーのようにまとわりついて離れてはくれないものである。ともかく結論を言えば、集団的自衛権の行使は日本の近海に地域を限定して容認すべきである。そして中国を対象にアメリカやその他、ベトナムやフィリピンなどの国々との連携を深める。先ずはそのように地域と目的を明確化させるべきである。それが積極的平和主義のあるべき姿だ。そして我々国民の認識力も日本の平和のために問われているのである。公明党のように、創価学会イデオロギーの範囲内でしか価値判断できないような下等な政治は、日本には邪魔なだけである。