龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日米安保と日本の平和

憲法改正や、解釈変更の話しとなると、どうも世間一般ではイデオロギーのためのイデオロギー、議論のための議論と言うものが先行して、政治や世論が現実から遊離している部分が大きいように感じられる。たとえば日本の国防に関しても、その中心となる拠り所が日米安保ということになるのであろうが、いざという時のその信用性は、どの程度のものと我々国民は考えるべきなのであろうか。私は個人的には、平時における平和幻想に過ぎないもので、最終的に米国が日本を守ってくれるかどうかなどわからないし、非常に不透明なものだと思うのである。国際条約など、まあ云わば両国間における努力目標というか、仮に不履行があったとしても、両国間の信頼関係に亀裂が入るだけのことで、特にそれで罰せられたり、損害賠償の責務を負うものでもないものである。たとえば1939年に締結された独ソ不可侵条約も、僅か2年後の1941年にはヒトラーソ連侵攻によってあっさりと破られることとなったし、現代の日本においても1965年に調印された日韓基本条約の内容を平気で無視するような謝罪や賠償の要求を韓国政府は日本に対して行い続けているものである。よってそれらに比べれば、1960年の日米安保は、これまで50年以上に亘って特に形骸化することもなく、それなりに有効に機能し続けてきたものであり、日本の平和が恒久的に保たれ続けるかのような幻想も日本人の意識にあって当然かとも思うが、近年の日本を取り巻く国際情勢の変化はそんな甘いものではないと危惧されるものである。最終的に日本に対する武力攻撃や侵略行為に際して、米国がどのような行動を取るかは、日米安保があるからと言ってもまったく未知数であり、安穏と構えていられるようなものではないと私は思うのである。特に中国は共産党一党独裁の国家であり、社会主義体制を嫌悪する米国との間で政治的な対立構造は一応は引き継がれているが、経済的には、中国の米国債保有高は日本を抜いて世界一であり、人口や市場規模の大きさから考えても米国が、中国の侵略や攻撃から日本を本気で守ってくれるかどうかはその時になってみないと実際にはわからないものである。中国の一方的な防空識別圏設定の問題に際しても、米国の中国に対する対応は腰が引けたもののように感じられたものであった。またその一方で中国の日本に対する軍事的な挑発行為はその頻度と激しさを増すばかりであり、外交上の対話姿勢も日本に対しては門戸が閉ざされたままである。このような状況の中で、日本の政治が憲法解釈の変更による集団的自衛権行使容認を模索し始めたことは、政治理想はともかくとして現実レベルの問題とすればある意味において当然のことと言えるものである。単にイデオロギー上の机上の空論で言えば、個別的自衛権日米安保で日本近海の有事に対して対処が可能だと言えるのかも知れないが、現実的にはどうなのであろうか。対処が可能であるということと、有効な対処が期待できるという事の間にある距離感が、国家的な危機管理の根本である。適切な例かどうかわからないが、卑近な例で言えば、ストーカーの被害で殺害される女性が実際にいる。しかし警察や政治家の立場で言えば、個別の事案はともかくも基本的には、ストーカー規正法で対処が可能だという理屈になると思われるものである。しかし一旦、悪質なストーカーに狙われた女性は警察や司法の力に頼っていても不安感は消えないから、自分の力で何とかしなければならないということにならざるを得ない。それで具体的にどうするか、結局何もしないかはその人次第であろうが、それと同じことではないのか。我々国民はストーカーにつきまとわれ続けるうら若き女性みたいなものである。美しく、そして無力なのである。北朝鮮がミサイルを発射しても日米安保も個別的自衛権も何もできない。もしキューバアメリカ沿岸の海域に向けてミサイルを発射すれば、決して米軍は黙って傍観していることはないであろう。日米安保などその程度のものであると言える。結局は、アメリカの利益になることでしか発動し得ないのである。日米安保は、集団的自衛権みたいなものだから、集団的自衛権の行使など認めなくともそれに代替し得るという考えもあるのかも知れないが、アメリカのみが日本を守って、アメリカが攻撃を受けた時に日本が守らないと言う片務性のもとでは、現在の状況においてはアメリカのアジア戦略がどうのこうのや日本の政治思想の問題以前に、恐らくは日本の政治が不安なのである。我々一般の国民以上に耐え難いほどの不安感に包まれているのではなかろうか。憲法解釈変更への動きの真相はそういうことなのではなかろうかと私は思う。情けないことではあるが、日本はアメリカに見捨てられると生きてはいけないのである。個別的自衛権など現実的な抑止力とすれば、あって無きが如しであるし、日米安保も元々絶対的に信用できるものではないし、その信頼性も内実的には薄らいできている。また国連の調停や平和維持活動などによる集団安全保障も、現実の紛争解決手段とすればほとんど効力を有していないことは敢えて言うまでもないことだ。よって日本がこれまでの安全保障政策を維持し続ける選択をするであれば、教科書的なイデオロギーや政治的対応区分の問題としてではなく、そのより具体的で論理的な論拠こそ述べられるべきであろう。