龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

憲法論議と日本のゆがんだ現実

憲法の中身は、確かにちょくちょく変えられるものでないことは当然であるが、しかし国家や国民にとって憲法とは、その時代背景や現実と共に存在するものであるから、未来永劫に亘って、不変、不朽という訳にはいかないであろう。よって現在の憲法も、大日本帝国憲法、同様に不磨の大典とは成り得ないのである。特に現在のように社会や環境の変化が激しい状況においては、50年どころか30年位の間隔で憲法の中身が見直されたり、修正されても決しておかしくはないと考えられるものである。ところが日本国憲法が施行されたのは、1946年であるから、既に68年が経過している。これでは時代感覚と合わなくなってきたり、現実への対処において矛盾が生じることも必然であると言えるであろう。よって憲法とは、ある意味において、家やマンションなどの建築物に似ているとも見れる。長年の風雨や雪、太陽光などに晒されていれば、劣化してゆくのは当然であるから、現実の構造物は10年とか20年単位で、修理されたり、酷い時には一旦、取り壊して立て直さなければならなくなる。そうしなければ地震などの災害に持ち堪えられずに、住人の生命や財産を守ることが出来ないからだ。正に国の家たる「国家」も同様ではないのか。国家の土台となる柱や梁などの枠組みを設計しているものが、憲法なのであるから。そういう意味では、現在、政治の世界で進められている、憲法9条の解釈変更とは家のリフォームに例えられることができる。住人の希望とすれば、本来は建て替えたい(つまり憲法改正のこと)ところなのであるが、そうするには時間もコストも掛かるので、取り敢えずは、応急の処置としてリフォーム(解釈変更)で、間に合わせようとしているのである。整合性とか一貫性の視点から見れば、確かに邪道なやり方とも見れるが、私はそれはそれでベストではなくとも、一つの選択肢とすれば現実的な対処として評価できるし、憲法改正という本格工事への足掛かりというか突破口にしていただきたいと考えるものである。自民党と連立を組む公明党創価学会は、憲法解釈を変更するのであれば、憲法改正の手続きを踏むべきであると、こういう時に限って妙にかしこまって正統なことをのたまう。立憲主義の観点から言えば、公明党創価学会の主張は、民主政治の御本尊の如く、ご立派である。しかし我々、一般国民はその真意がどこにあるのかをよく見極めなければならない。そもそも創価学会やところてんの公明党は、憲法9条改正に反対のはずである。そうであれば先の例えに当て嵌めて言えば、妻が家のリフォームに反対するために、リフォームを決めようとする夫への屁理屈として、夫に出来ないことがわかっていて、リフォームするのであれば家を建て替えるべきだとごねているようなものである。妻と夫が本当に家の建て替えで意見が一致しているのであれば、そもそもリフォームなどということにはならないはずであるのに、性根の悪い女は、いや敢えて全ての女性とフェミニストを敵にする覚悟で申せば、世の「女」は一般的にそういうところが大にしてある。そういう意味では、公明党は妻(女)で、自民党は夫(男)ということになるが、こう言えば、また男はすぐに戦争をしたがる生き物だ、などと、訳のわからないご批判が出てきそうなのでこの辺にしておく。しかし公明党創価学会だけでなく、朝日新聞毎日新聞などのマスコミにしても同様であろうが、今回の憲法9条の解釈変更に反対するそれぞれ組織のイデオロギーとは一体何なのであるのかを我々一人一人はよく考える必要があると思う。彼らは日本の平和や立憲主義を守るために、自らの身体を張って、権力の暴走を防ごうとしている勇者なのであろうか。私にはそうは見えないものである。私の目には、彼らは彼らなりの主張で、自らの「拠り所」を守っているだけのことである。拠り所とは、寄って立つ思想であり、その本質とは、私のように何の社会的なバックボーンも持たない単なる一個の人間が、自分自身の頭で考え、感じるところの率直な意見とは似て非なるものであり、組織を守り、組織に依拠する思想であるということである。組織論を社会全体に敷衍させようとしているだけのことで、1個の人間の純粋なる現実感覚とは、質的に異なっているものである。組織論には、当然そこに深く洗脳が、付きまとう事となる。そういう意味においては、朝日新聞毎日新聞も、創価学会も皆、同じである。組織論として組織的に、「平和主義」と言う名のイデオロギーを守っているだけのことである。もちろんそれでは読売新聞や産経新聞には組織防衛のイデオロギーや洗脳がないのかと言えば、決してそうではない。保守系の言論には、保守系の洗脳があって、むしろそちらの方が広範囲で根深く、見え難いだけに、厄介であると言う事も出来ようが、少なくとも日本の安全保障政策については、朝日や毎日などの憲法9条墨守のように、原理主義的ではない。創価学会はともかく、朝日や毎日にとっては、憲法9条は組織存続のための御本尊のように位置せられているから、本質的な部分では民主主義的な議論を排除し、寄せ付けないものである。なぜならその組織にとっては、どのような内容の議論によっても、結局のところは、イデオロギーの中核となる御本尊を否定することに成りようがないからである。よって本当は議論以前の問題なのだ。共産党もまた同じである。加藤紘一氏が赤旗のインタビューに、集団的自衛権の行使を認めると米国の要請で、自衛隊が地球の裏側まで行くことは十分に想定される、と述べた。また、今日、街中を自転車で走っていて、「アメリカ、いいなり、もうやめよう」との簡潔なメッセージが大きく印刷された共産党のポスターが貼られているのを見た。その通りである。いつまで日本はアメリカのいいなりを続けなければならないのか。何で国連憲章で認められている集団的自衛権を、日本が憲法上においても行使し得る見解を採用したからといって、アメリカの要請に唯々諾々と従わなければならないことになるのか、アメリカの要請を毅然と断るためには、日本は何が必要で、具体的にどうすればよいのか、そう言う根本的な領域に踏み込んで、共産党は独自の考えがあるのかないのか知らないが、国民全体に伝わるようなメッセージを何も発していないではないか。「アメリカにNOと言おう。」とか、そんな国民を馬鹿にしたようなポスターばかりで、そういうことが簡単に出来るのであれば、何の苦労もないというものである。反対に言えば、アメリカのいいなりを止めて、NOと宣言して、その後にどのような社会が開けてゆくのかということでもある。共産党もまた、現在の日本にあっては、単に組織防衛上のイデオロギーに依拠しているだけの集団であって、市井の現実感覚からは隔絶しているものである。それらの中でも、個人的に私が公明党創価学会を特に問題視する理由は、言うまでもないことだが、創価学会自体が、日本国憲法第20条の政教分離の原則に違反している可能性がきわめて高いからである。憲法違反であることが濃厚な大組織が、政治に深く介入して、憲法9条のこれまでの解釈と立憲主義そのものを守り抜こうとしている皮肉と矛盾が、日本の歪んだ現実なのである。