龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

日本型権力の断面

それでは左翼言論が指摘するところの特定秘密保護法の危険性について具体的に検証したいが、その前に前回、述べた日本の権力構造の断面について再度、説明させていただきたい。日本の権力は3本足の鼎(かなえ)であると言えよう。三権分立の司法、行政、立法のことではない。それらは独立していても同じ権力の系統に属している。3本足とは、政治と官僚とマスコミである。権力の系統図式的には、政治は官僚やマスコミよりも上位に位置して監督する形式にはなっているが、実質的には3本足の鼎のように、あくまでも均等に日本と言う容器を支え、そのバランス感覚が日本の権力の横断面になっていると見れる。その鼎立の構造上、その内の1本が突出して長く(強く)なってしまうと、日本と言う容器はひっくり返ってしまうことになる。よって政治とは、マスコミや官僚の足の長さに合わせたバランスの範囲内、つまり日本という容器がひっくり返らない程度の可動域しか持ち得ていないものであり、政治主導の改革ということは元々、有り得ないものである。民主党政権の政治が失敗したのも、言ってみれば、そういう日本型権力構造の特殊性に阻まれたものであり、また民主党政治家が揃って馬鹿だったからそういう根本的な所がまったく見えていなかったのであろう。それでも日本の政治は、少なくとも3本足の内の1本の重要性を持ち得ているということは可能である。政治主導の強権ではなく、あくまでも穏やかな調整(話しあい)によって官僚やマスコミと足並みを揃えて、日本がひっくり返らないように慎重にバランスを取りながら、時代の変化に即した改革を成していくということも原理的にはまったく不可能と言う訳ではない。しかし現実的にそれが成し得るかと言えば、政治権力は3本足の1本であっても、権力の寿命という観点から見れば、官僚やマスコミの安定性、永続性に遥かに及ばないものであり、政治は、衆議院の任期の4年どころか、つい最近までは1年ごとに内閣がパッチワーク政治のように交代していく有様であり、相対的に官僚とマスコミの2柱が絶大な権力を掌握している結果となっているものである。政治は国民の絶大な支持で選ばれたものであっても、現実的には官僚とマスコミの既得権に中々切り込んでいくことは出来ない。また下手に無理を通そうとすれば、反対にマスコミの返り討ちで潰されてしまうことになってしまう。そういう基本的な日本型権力の図式が見えているかどうかで、先の特定秘密保護法に関する考え方も変わってくるとは思われるものだが、それではそのような日本の権力構造の特殊性はいつ、どのように出来たのかという点についても言及しなければならないが、言うまでもなく終戦直後にアメリカが日本の民主主義の在り方を設計したものである。戦争直後のアメリカは、日本の政治の力を弱めて管理下に置いておかないことには、また将来的にいつ戦争に踏み切って来る国に変わるかわからないという不安があったのであろう。よって政治を3本足の鼎の1本のように、官僚、マスコミと同等に位置付けることによって、また官僚、マスコミをアメリカが遠隔的に管理する体制を作ることで政治の独走を抑止する民主主義の形を作ったのだ。もちろん今の日本の民主主義もその延長線上にある。というよりも、正に今もその設計そのままである。そしてその設計様式は、日本人の感性や日本の土壌に適合していたと見ることが出来る。なぜなら日本は言うまでもなく天皇を擁する君主制国家であり、天皇の下で、聖徳太子の「和を以て尊しとなし」ではないが、日本臣民を代表する管理層が協調的に政治の独走を抑止するという形式が、アメリカの意向に沿うものであると同時に、日本人全体にも受け入れられやすいと判断されたものであろう。そういう意味では、終戦時に天皇の戦争責任を問わずに、天皇制を存続させた上で、このような日本の民主主義を導入させたマッカーサーはもの凄く、頭が良かったのだと私は思う。ある意味では日本人以上に、日本という国家と日本人的な心性の本質を理解していたのではなかろうか。しかし戦後68年も経過した今日となっては、(確かにこれまではそのアメリカが植え付けた民主主義のおかげで大いなる経済発展を遂げ、平和も保たれてきたものではあるが、)政治不在の構造が宿痾のように、時代の変化に対応する日本の危機管理の能力を奪っており、国力衰退の主因ともなっていると見れる。未だに政治が少しでもマスコミや官僚から突出しようとすれば、戦前への回帰だとか、全体主義政治が復活する兆しであるなどと、批判の声が方々から上がって来るのは、そういうことである。特にマスコミは、終戦直後のアメリカが日本の統治に都合が良いように設計したものであるという以上の価値はないにも関わらず、未だに国家権力の独走を抑止するという使命の下で、政治権力と同等以上の存在であるという高慢な矜持から離れることが出来ないでいる。その結果、日本は実質的にマスコミと官僚が支配する国家となっており、民主主義の歪みは顕在化し、それに対する国民の反発も年々大きくなってきている状況にある。マスコミや官僚の過剰な力は、国家を犠牲にしてまでも自分たちの権益を保護したり増大させる方向性にしか作用しない性質のものである。今や日本が戦争に突き進む可能性は0ではないにせよ非常に低いものであり、相対的に中国などの軍事脅威の増大や威嚇行為の頻出などとの関連において見れば、政治が主導権を持ってより現実的な対応をなすことが迫られている状況であることは誰にも否定できない事実であるはずだ。しかしマスコミの旧来の政治への対応は、単にマスコミ勢力が政治を押さえ付ける示威運動でしかあり得ないものであり、国民の生命や国益を守る政治転換への妨げになっているとも言える。それをいつまでも延々と、国家権力が戦争に進む危険性から、国民と世界のためにマスコミが尽力し回避しているなどという有難い御託を並べられても困るというものである。世界情勢も日に日に変化している。今日のアメリカは、10年前のアメリカですらない。はっきり言ってアメリカの覇権も弱まってきていると思う。それは取りも直さず、日本の安全保障も脆弱になってきているということなのだ。シリア内乱に対してロシアに主導権を握られて戦争に踏み切れなかったことも、結果的にはそれで良かったのかも知れないが、アメリカはもう新たな戦争をするだけの力が枯渇してきているからだとも見れる。中国に対する対応を見ても、防空識別圏の問題でも分かる通り、一応は軍事的には毅然として対立する姿勢は見せてはいるものの、経済的な結びつきの深さを考慮してであろうが微妙な態度を見せているものである。またアメリカが未だに日米韓の三か国同盟を基軸として、原理主義的に中国の脅威に対抗するというスタイルに堅持しているにも関わらず、韓国がアメリカの要求を無視するような形で中国に肩入れし、頑なに反日姿勢を改めようとしないことも時代の変化の現れである。特定秘密保護法もそのような時代背景の中から、生まれてきたものであり、日本もアメリカのプレゼンスの低下と中国の脅威の増大という流れの中で、イデオロギーではなく現実に立脚した政治を選択してゆく必要性が高まっているのだ。そういうことを朝日や毎日の言論は理解できていない。彼らは68年前の夢のような正義感の中で今も彷徨い続けているのだから本当に困ったものである。戦後民主主義の洗脳はそれほどまでに、深く、深く、容易に脱却できるものではないということなのだろうが、マスコミの主張はイデオロギーの問題だけではなく、金儲けのためのビジネススタイルでもあるのだから、我々一般の国民は必要以上に感化されるべきではない。いずれにせよマスコミは社会の木鐸でないということだけは、はっきりしている。木鐸であるどころか、自己催眠によってもっとも深い眠りに落ち込んだままの当事者である。むしろ我々が、彼らを目覚めさせてやらなければならないぐらいだが、処置なしとして無視しておけば良いと思う。冒頭に述べた特定秘密保護法の危険性についての具体的な検証は、長くなってしまったので次回に回すことにさせていただく。