龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

乱心と迷妄

馬鹿女の乱心ほど、始末に負えないものはないと古今東西、相場が決まっているが、馬鹿は馬鹿でも、低俗な魂が権力という高級な衣装で装われれば、身の程知らずの暴君女になる。
先日のNHK番組、ETV特集『死刑執行、法務大臣の苦悩』を見て、私は不快感のあまり、目の前の液晶TVをハンマーで叩き壊したい衝動に駆られた。今更、千葉景子氏という程度の低い人物にスポットライトを当てなければならないほど、NHKは馬鹿女と相性がよいというということであろうか。
ともかく千葉景子氏は何を考えているのか、どういう頭の構造をしているのか、さっぱりわからない。“何か”“こう”“そのー”など、意味のない呻き声のような音声を発しているだけで、自らの理想とか信念と国家権力との狭間における矛盾や苦悩が、一つの筋道立ったストーリーとしてまったく伝わってこない。
彼女は弁護士資格を有しているとのことであるが、この程度の思考レベルで司法試験とは合格できるものなのか。私には千葉景子氏の頭の中には、脳味噌でも蟹味噌でもなく、ティッシュパーパーが詰まっているのではないかと思えたほどだ。
わからないなりに要約すると千葉景子氏の呻吟はこういう内容である。千葉氏は、一貫して死刑廃止論者のはずであったのだが、法務大臣として死刑執行の決断をするに当り、サインをすることで何かをスタートさせようと思ったとおっしゃるのである。その何かとは、死刑制度を巡る議論を深めることだと言う。そのために刑場を公開して、自らも執行現場にお立会いなされたとのことである。それでガラス越しに、死刑をご観覧された感想が、
「人の死とは、あっけないものだなー。」とか
「人間がぶら下がっているのを見て、普通の姿ではないと思った。」
と、宣ふのである。ふざけるのもいい加減にしていただきたい。そんなことをご確認するために、死刑廃止論者が死刑執行を必要とすると言うのか。脳味噌が腐っているのではないのか。法務省内に勉強会を開くきっかけとしたいとも発言していたが、死刑制度を巡る議論を深めたり、法務省内で勉強会を開くために死刑廃止論者が死刑執行をなすとは、倫理倒錯も甚だしいではないか。
我々国民を、少なくとも私一人だけは、誤魔化すことは出来ないぞ。昨年、7月11日の参議院選挙で現職の法務大臣が落選するという屈辱を味わった千葉氏は、何を血迷ったのか、法務大臣(それも女性)が死刑執行現場に歴史上初めて立ち会ったということで起“死”回“生”の汚名挽回を企図し、半ばヒステリックな感情を伴って参議院議員任期満了の前日である7月24日に署名し、その4日後の7月28日に2名の死刑執行が行われたという顛末ではないのか。いくら何でもまさか、そこまではと考える人は、政治家を買い被り過ぎている。馬鹿の発想とは、所詮その程度のものである。そういうレベルの歯車で日本という国家機構は動いているのだ。千葉氏のよう人物が、死刑執行を見届けることについて私には不潔感のようなものしか感じ取れない。菅直人氏も同質だが、こういう連中は一見、高邁な理想を持っているように見せ掛けはするが、最終的には自分のことしか考えていない。まさに亀井静香氏が指摘する通り、連合赤軍的である。自己実現のために、他者や正義を利用することしか考えられない思考回路の持ち主は、本当に深く人格に根ざした志を持ち得ない人種である。
そもそも死刑廃止論者であれば法務大臣に就任するな、という世間一般の論調そのものが、あまりに視野狭窄というか歪んでいる。死刑制度は、日本の世論調査の結果がどうであれ、今や世界的にはごく少数派である。アジアにあっては韓国ですら10年以上執行されていない実質的な廃止国とされている。半導体や電化製品の売上げが抜かれるだけでなく、人権意識のレベルまで韓国に負けていることに対して日本の為政者はあまりに鈍感すぎるのではないのか。
死刑制度存置国が、廃止へと移行するためには死刑執行をしないモラトリアム期間の継続が必要である。鳩山邦夫氏のように、死刑執行の署名をしない法務大臣は職務怠慢だという思想の持ち主が、たとえ死神だと罵られようと自らの信念に基づいて就任期間中に次々と執行をなすことは、私は個人的には賛成できないし、鳩山邦夫氏の日頃の軽はずみな言動から考えても、やはり馬鹿だとしか言えないが、馬鹿は馬鹿でもそれなりに筋道が通っている。千葉景子氏のように、それまで人権向上や死刑廃止を思想の要としてきた人間が、議論を深め、勉強会を開くきっかけにしたいから、執行のサインをしましたという倒錯は、まさに連合赤軍内部の殺害と同じレベルの発想だと思われる。日本が死刑制度存続国であり続けるか、モラトリアムを経て廃止国に向かうかは、法務大臣の決断次第であり、死刑制度廃止の思想を有する法務大臣が、自分が大臣であり続ける間は決して執行の署名はしない、そして今後の大臣にも執行はしないでいただきたいと訴えることは、法治国家のあり方として何ら矛盾はないはずである。
なぜなら法律というものは神のごとく、時代や社会を超越して絶対的かつ普遍的に無謬であるものではなく、社会状況や世相、国民の意識と共に移り変わってゆかねばならないものであるからだ。今から100年前には大逆事件の処刑が行われた。明治憲法の下では、天皇や皇后、皇太子に危害を加えたり、また加えようと計画しただけで死刑となったのである。当時の天皇は人間ではなく、神であった。社会主義者幸徳秋水やその妻、菅野スガらは、天皇が神であるという“迷妄”が貧困や差別、搾取など社会悪の根源であるとの思想から、宮下太吉や古河力作らと共謀して実際に爆弾を作り、その爆弾を天皇に投げつけて、天皇陛下も国民同様の赤い血が流れる人間であることを証明し、大衆の迷妄を開かんと計画した。
この大逆事件では24名に死刑判決が下され、その内の12名が絞首刑に処され、12名は特赦となり死刑は免れた。水上勉の『古河力作の生涯』(文春文庫)や、佐木隆三の『小説 大逆事件』(文春文庫)を読んだ限りにおいて言えば、幸徳秋水らは、社会主義無政府主義などの先鋭思想と戯れていただけのようなどこか長閑で牧歌的な風景も浮かび上がってくるのであるが、思想や理想が先走り過ぎ、仲間内での大言壮語が高じて、爆弾製造にまで至り、結局、死刑になってしまったのである。そこには滑稽とも言えるような、純粋な生の悲しみが見えてくる。私は古典的な社会主義思想に共感はまったく感じるものではないが、大衆の迷妄を開くために、ただそれだけの純粋な動機で死刑になった古河力作の心情には何かしら深く感じ入るものがある。幸徳秋水は学者肌だったのかも知れないが、どこか姑息で、俗っぽい印象が強く、個人的には到底好きになれないタイプの人間である。
いつの時代にも、どの世の中にあっても大衆は迷妄に覆われている。大衆が真理に疎いからこそ、権力が権力足り得るとも言える。今の日本の迷妄の一つに、死刑制度の存続が必要であるという思い込みがあるのではないかと、私は思う。そもそも中国や韓国のような隣国にちょっと内政干渉されるだけで、法や道理を捻じ曲げるような権力機構に、たとえ凶悪犯といえども一人の人間の命を無理やり奪い取る“値打ち”があるのだろうか。人間、死んでしまえば皆、同じである。死の恐怖と共に獄中で生かされ続ける苦しみ以上の過酷な刑はないとも言える。死とは救いである。
私に断言できることは、日本の国から死刑制度が廃止されれば、日本社会全体の質が大きく変化するであろうということである。その変化をどのように受け止めるかということが、死刑制度存廃の本質なのだ。