龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

都会生活の盲点

市民生活における大人の一義的な役割とは、子供の命を守ることにあると、私は思う。もちろん自分の子供だけでなく、他所の家の子供も、つまらない事件や事故で大切な命が失われることのないように気を配ってあげなければならない。でも、今の日本のように、世の中が荒んでくると、大人たちは自分のことだけで手一杯になってしまって、本来、一番大切に保護しなければならない子供たちの命にまで、細やかな注意が及ばなくなる。どれだけ子供の生命や幸福が保全されているかが、その社会の民度を示す一つの尺度であるとも言えよう。そういう意味では、日本はけっして民度が高い国とは言えないのではないのか。
子供の死は、本当に痛ましい。特に私が不憫に感じるのは、殺人や虐待死などは論外であるが、不慮の災難によるものでは、実は“転落死”である。子供がマンションの高層階から転落死したという報道に接すると、私は本当に目を瞑り、耳を塞ぎたくなるほどいやな気分に陥ってしまう。その理由は、転落死という不幸が、社会にとってのアディショナル(余計)な死と言うべきか、本来、そういうつまらない事故による子供の死は、回避できる筈であると強く思うからだ。では、なぜこれほどまでに次々と子供たちは転落死することになるのか。
私は、そこに社会の盲点があると思う。物理的な盲点ではなく、意識上の盲点である。考えてみれば、我々大人は自分たちが死ぬ原因となる災難だけから子供たちの心配をする傾向がある。大人は、交通事故や火事で死ぬ。海や川で、溺死する。だから子供の交通事故や水難事故の心配ばかりしている。だが、大人が転落死することはない。あるとすれば、飛び降り自殺の時だけだ。
大人は覚悟して自発的に死を選択する以外に高所から落ちることはないのに、子供たちは生命力に満ち溢れ、無邪気に遊んでいる時に転落死する。我々大人は、子供は高所から落ちて死ぬ生き物だ、ぐらいに考えて注意しなければならないのではないか。
だから私は、小学校4年生の息子に、機会があるごとに言い聞かせている。高い所には気をつけろ、と。幸い、息子と元妻が住んでいるマンションの住居階は2階なので安心なのだが、“高層階のマンションに住んでいる友達の家に遊びに行ってもベランダで遊んではいけない”、“学校の窓から身を乗り出したり、手すりにぶら下がるようなことは絶対にするな。”と何度も言っている。“車に気を付けろ”とは、ほとんど言わないが、とにかく“高所には気を付けろ”である。車に轢かれても死ぬことは希だが、高層階から転落すれば確実に死ぬからだ。世の中全体が、子供の転落事故について私ぐらいに心配性になる必要性があるのではないのか。私だけが、自分の子供にいくら注意したところで仕方ないのだから。各家庭の親も、学校も意識の盲点を払って、転落事故に対する充分な喚起をしていただきたいものだ。天窓が設えてあるような建物の最上階には、子供たちが、立ち入り出来ないようにしっかりと鍵の管理が成されることは当然である。ここ数年、子供が天窓の上に載り、踏み破って転落死する事故が数例、報道されており、本当にやり切れない思いだ。全ての事故が報道されているわけではないであろうから、子供の転落事故は相当数あるものと思われる。日本から子供の転落事故がなくなることが、本当に豊かな社会への端緒だとさえ、私には感じられるのだ。