龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

最悪の一日 3/4

自転車で来ていたのだが、帰り道、私は自転車にまともに乗ることすらできなかった。商店街の中で派手に自転車ごと倒れて、ばしゃんという大きな音が響き亘る。後ろの方から、「大丈夫ですか。」という声が聞こえる。実は私はその「大丈夫ですか。」の誰か男の声しか覚えていない。自分が自転車で転倒したことの記憶が飛んでいるのだ。但し自転車を押して帰ったことは覚えている。後日見ると私が長年乗り続けてきたマウンテン・バイクのギア部分が無残に壊れていて、私の腕には大きな痣があったのでその時の状況が推察できるだけだ。
翌日は幸いにも日曜日であったが、私は本当に天罰に当たったような二日酔いの苦しみに悶えた。これまでの人生で最悪の二日酔いであった。あまりに苦しいので、とにかく胃の中のアルコール分を少しでも減らそうとして喉の奥に指を突っ込んで、ぐぇっとまるで身体の中のエクトプラズムか悪霊を吐き出すように嘔吐くが、胃液が混じった少量の茶色の液体しか出てこない。布団で横になるが1時間ほどするとまた嘔吐き出して気分が悪くなり、トイレに駆け込んで喉の奥に指を突っ込む。そして少量の茶色の液体を出す。そういうことを1日中、10回ぐらい繰り返していると徐々に身体が衰弱してくる。当然、食べ物はまったく胃が受け付けないし、横になってばかりいるので腰や身体の節々や、なぜか足の裏まで痛み出してくる。結局日曜日丸1日、24時間、布団とトイレの行ったり来たりで、最後にふと思いついたように冷蔵庫の牛乳を一口飲み、家に常備してあった『エビオス錠』を15錠ほど口に放り込んで飲み下してから気分が回復していった。こういう時の『エビオス錠』は中々効き目がある。顆粒胃薬では全然駄目だ。エビオス錠に命を救われたような思いであった。
とにかく私はその日1日、地獄のような二日酔いに苦しみながら自分なりに反省し、考えたのであった。当然のことではあるが酒は控えよう。私はもう48歳で知らない間にかなり酒が弱くなってしまっている。禁酒とまではいかなくとも、週に1~2回軽く飲む程度に抑えることにしよう。外で梯子して飲み歩くことは止めにしよう。食事の時に軽く飲む程度にするのだ。それから、これからは出来るだけ家にこもって読書や勉強や、瞑想修行に専念する生活に徹することにしよう。外の世界にはそれなりに刺激があるのかも知れないが、今更刺激を求めても仕方ないではないか。誰にも理解されないことではあるが、元々の私の性質は求道者であり、修行者なのだ。結局のところ、だから離婚したようなものだ。私は自分が為すべきことを、為すべきである。その道を外れるからこうやって罰が当るのだ。俗世のことは俗世の論理に任せておけばよいのだ。それを誰とも知らない女の尻をさすりながら酔いつぶれるとは本当に情けないことだ、と。人間、二日酔いで死にかけている時だけは妙に殊勝な気持ちになるものだ。ところが2~3日経って体調が回復してくると勝手なものでまた少し考え方が変わってくる。人間とはやはり不品行や不道徳から離れられない生き物だ。だからこそ品行や道徳の善さが常に称揚され価値を有するのである。私はやはり俗世を無視しては到底生きていけない。そもそも自分は本当の宗教者でも修行者でもないのだし、日本の宗教界そのものが堕落しきっているではないか。宗教は悩みを抱えた一個人に対しては籠絡するための幾千万もの言葉を持っているのに、大きな組織や権威に向かっては何一つ意見する気概も持っていない。ほとんどの宗教組織には単なる金儲けのための形骸化された信仰しかない。日本の全てが俗である。俗世のことをこれまでの俗世の論理に任せていると日本は本当に大変なことになる。俗世の奥に分け入って何らかの言葉を発することも修行である。私の役割とはそういうところにあるのではないのか。日本の新しい時代へ向けた国家像の在り方を地に足の着いた民衆の感覚と結びつけた思想を作ってゆかなければならない。そのためには俗人こそが高貴な思想を持たなければならない。俗人こそが日本を変革する力を持たなければならないのだ。私は聖と俗の境界を乗り越えた地点から発言しなければならないのだ。そのためには聖と俗の双方を知らねばならない。だからたまには女の尻を触るようなことも必要だ、と多少の自己弁護も混ざってきて初めての人が聞けば誇大妄想狂ではないかと思われるようなことを考えたりもする。
その一方で私は昔から示威行動というものが嫌いである。だからデモや集会などにはこれまで一度も参加したことがない。元々臆病なせいかも知れないが、私は群集を見ると生理的に恐怖感を覚えるし、その群衆の一員になりたいとも思わない。だからエッセイで激しく政治を批判してもまた孤独な個に立ち返って、下手な詩を作ったりと振り子のように基点が揺らいでしまう。意識してやっているわけではない。無意識にそうなってしまうのだ。48歳にしていまだに人生の立ち位置が定まっていないのだ。どう自己分析すればよいものかわからないが、でもそれが自分の本性なら仕方ないとも思う。私は一つの道だけを真っ直ぐに突き進むのが怖いのだ。基本的に何も信用していないからだと思う。あるいは何かが見え過ぎているからであろうか。ただ自分の中にある揺らぎや迷いを見つめて、それを純粋な言葉で表現するという行為に一つの一貫性があるとすれば、それだけが自分の人生なのかも知れない。一篇の詩を作る、それだけの人生というものがあってもよいのではなかろうか。それを淋しいと考えるかどうかはその人の価値観の問題だ。
“人間とは不品行や不道徳から離れられない生き物である”との定義が仮に正しいとしても、私が何を罪と感じ、何を反省するかは私の勝手である。勝手という言葉が傲慢であると言われるなら、個性だ。私は私の個性に従って生きていく他ない。時に個性はとても重たく、私を足枷の如く束縛する。しかし自らの個性(内なる声)を無視すれば、分裂病者のようになってしまうであろうから、私は自らの個性と折り合いをつけながら生きてゆく以外に道はない。それは私の内面領域の問題である。個性という内面があるからこそ、表現が生まれるとも言える。その表現を純化させれば芸術にまで到達するかも知れない。本来、誰も個性を罰することはできないはずだ。なぜなら個性とはその人にとって何が正しくて、何が罪であるかを教える道しるべであるとも言えるからだ。人は皆、異なるのである。もちろん一口に個性と言っても様々であり、私は群集心理の反映に過ぎないものや極度に病的なものや犯罪的なものまで個性としては認めたくない。それらは個性の仮面を被った憎悪であったり虚飾であったりする可能性が高い。しかしその個性が本物であるか、偽者であるかも結局はその人の問題である。ある人が一生、本当の自分というものを持ち得ずに死んでいったとしても何ら不思議ではない。むしろそういう人の方が多いのではないであろうか。自分を持つということは本当は大変なことである。命がけだ。地球上のこれまでのあらゆる文明において、自分を持っていて尚且つ権力者に受け入れられなかった者は、ほとんど全て危険分子として殺されてきたのではないであろうか。だから反対に言えば、個性という言葉の定義にもよるが、自分という個性を持っている人間の方が社会にとっての異物であり、個性のない人間の方がある意味において健全と言うか一般的なのである。だから安っぽい“自分探し”とか万人が生まれながらにして個性を持っているかの幻想は時に危険で有害だと思われる。人生において何か一つのことを継続してやっていればそれがその人にとっての個性というか内面の声になってゆくのであり、それが教育や学問の力だと思うのだが、より根源的に“前世”などの観念を持ち出してきてスピリチュアルな領域で自分探しをし始めるようになると、元々無いものを有るかのように信じ込まなければならない必要性が生じ、真面目で純粋過ぎる人間はカルトの教義に取り込まれる危険性が高くなるのだと考えられる。そこには所与のものとしてこの世に生まれてきた意味なり使命なりが有る筈だ、無ければならない、といった激しい思い込みのようなものが出発点になっているのではなかろうか。そういうタイプの人間は人生の根源的な意味や使命を受動的に捉えている点において逆説的に没個性である。より創造的な人間は今、生きているこの瞬間に絶えず自分を再更新して作り変えてゆく能力を持っている。そういう人間は必要以上に自らの魂のルーツなどに拘らない。私自身、もし前世があるのなら仏教の修行僧であったような気もするが、それは自分で勝手にそう想像しているだけのことであり、そこに何かの意味や使命や価値を積極的、肯定的に見出そうなどとはまったく思わない。寧ろそういう風に想像せざるを得ない私の感性や思考にもし私の個性が存するならば、先にも述べたようにそれは私にとって囚人に嵌められた足枷のごとき重荷でしかないからだ。そしてその諦観がまた私の個性を強化してことになる。