龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

胎蔵界結縁灌頂参加から10年を経過して思うこと

もう10年か。過ぎ去ってしまえば、あっという間だな。ブログ記事の記録によれば、2007年の5月3日に、私は高野山胎蔵界結縁灌頂を受けに行っているので、ちょうど10年が経過したことになる。思い返せば10年前は、息子が西暦2000年生まれだから7歳ということで、小学校に入ったばかりで一番可愛い時期であったが、夫婦間の別居や離婚で揉めていて、子供に自由に会えなかったり、また子供がチックを発症していろいろな民間療法の治療所に、私の仕事が休みの日曜日ごとに連れて行ったりと、私にとっては大変な時期であった。10年一区切りということで、この10年を灌頂儀式を体験した2007年5月3日以降の、生活における外面的な変化や物の見方や考え方などの内面性の変遷などの観点から総括したいと思う。とは言っても、正直に言えば変わったことはほとんど何もない。変わるのがよいのか、取り立てて変化がなく、生活が一定、安定している方がよいのかということもあろうが、私に関して言えば、具体的には離婚が成立して私が親権を取ったが、相変わらず息子と元妻は私が購入して所有しているマンションに住み続けているし(それは私がそういう離婚後の生活スタイルを希望したからであるが)、私の基本的な精神性も結縁灌頂の前後で何ら変化していない。ならば灌頂の儀式を受けたことが、私にとって無意味であったかと言えば、そうとも言えないものであって、その辺の評価とか判断は、仏教というものの本質に関わることでもあり、簡単に説明し切れるものではないが、この10年経過を節目に自分なりに私感をまとめてみたい。
先ず「結縁」と言っても、こういう身も蓋もない言い方をすると関係者はいやな顔をするかも知れないが、そもそも仏教であるとか密教の世界観や御仏などに、縁が多少なりともあるからこそ人生のある時期にそういう儀式に参加してみようかなということになるのであって、元々縁がない人は、そういう儀式に参加することにはならないと思う。よって正確に言えば、仏縁を新たに取り結ぶのではなくて、自分の心の中深くに埋もれてしまっている仏性であるとか仏縁に光を当てることで再認識、再確認し、それらを日々の生活の中で生かしていくことに意義や目的があるのだと思われる。それから変化ということで見れば、多くの人が人生における何らかの変化を希求しているのであろうが、これは結縁灌頂だけでなくあらゆる信仰というものに共通して言えることではあると思われるが、手品や魔法のように今、目の前にある人生の苦難や困難を取り除いてくれるものではない。(その点については私の記事を読んでいただければ、よくご理解いただけると思われるが。)同様に信仰によってたとえば癌細胞が奇跡のように消失したり、宝くじに当たったり、そういうことに類するようなことも起こり得ない。宗教側の布教の仕方にも問題はあると考えられるが、そういうことを安易に期待して、結縁灌頂のような特殊な儀式に参加しようと思われるのであれば、止めておいた方がよいであろう。仏縁を取り結んでも、或いは再認識しても、その人にとっての人生の苦難や困難は、継続して引き継がれるもので、急激に生活が楽になったり、幸福になったりするものではない。なぜなら人間の人生であるとか生活は、仏教的な考えからみれば原因と結果の因果応報のプロセスの中で何らかの気付きを得たり、真理を学んでいくことに意味があるのであって、御仏が超越的な力でその人の人生を変質させたり、決定的に変化させてしまえば、それは本質的には人生という学びの場を破壊することに他ならないからである。しかしそうは言っても仏は、人間にとって、大変に有難い存在である。神仏などと一言で表現されるが、神は超然として存在しているだけで個々の人間の生活に関心を持たれるものでないと考えられるが、御仏は西洋でいうところの天使のような存在者であり、わざわざ人間の地上世界に降り立ってきて、生きることが困難な人間の生活を助けるために、その人の性質や機縁に基づいて、その人に合った方法で導いたり、何らかの不可思議な力を及ぼすものである。しかしその施しはあくまでも、その人間が主人公であるところの人生という舞台の筋書きに従って為されるものであって、筋書きそのものや運命が毀損されたり、書き換えられることはあり得ないものである。また仏の知恵や働きかけというものは、一個の人間の人生を全て見通した上で行われるものであって、それは我々人間の人知を遥かに超えたものであるために、それらが意味するところを、ああだこうだと解釈したり、分析できるものではあり得ない。人間にできることは、何らかの御仏の力が働いたことをただ感じて、それに対して有り難いと感謝の心をもつことのみである。我々人間と天上の御仏では、その知恵や能力にあまりにもレベルがかけ離れ過ぎているので、それゆえにそもそも人間が御仏の心や考えを忖度できるようなものではないのである。だから人間はそれぞれの内面の良心や個性に従って、基本的には自由に生きていればよいのだと私は思う。人間を束縛したり、自由を制限しようとするものは、神仏ではなくて宗教なのである。
私は仏教とは、「弱者」のためにある教えだと考える。弱者と言っても社会的弱者という意味ではなくて、魂といえば語弊があるかも知れないが、心や精神の弱者である。俗に人間とは弱い生き物だなどと一括りにして述べられることが多いが、私はそうだとは思わない。私は人間は大別すると、2種類に分けられると思う。神仏の手助けなしに生きていける強い人間と、手助けなしには生きていけない弱い人間である。「仏縁」とか「結縁」などといっても、本当はそういうものがなくてもこの困難な世の中を生き抜いていける力や才能を持っている人間の方が尊いのかも知れない。そして実際にこの世の中にはそういう人間も確かに存在するものである。仏教とはそういう強い人間を対象にするのではなくて、如来であるとか菩薩などの功徳力の手助けがなければ、いつの世であろうと、過酷極まりない生存環境の中で押し潰されてしまいそうになったり、煩悩に負けて人道に背いてしまったり、自らの個性を発揮して幸福に力強く生きていくことが困難であるような、生きる力が弱い人々に救いの手を得られるようにするための教えだと思うのである。私は言うまでもなく後者の人間である。10年前の胎蔵界結縁灌頂においても、小さな子供も参加して同じことをしているというのに、私は長時間、目隠しをされてちょっとしたパニックに陥り、自らの内なる地獄を垣間見てしまったほどである。それゆえに本来であれば、胎蔵界結縁灌頂に参加したのであれば、次は金剛界ということになるのであろうが、私は正直に言ってもうこりごりである。もう充分に御縁をいただいたので、これ以上はご遠慮させていただきたい。関連して言えば、仏教の信仰に親しんでいれば、日常生活の中で御仏の力が顕現したかのような不思議な経験をすることもあるが、そういう神秘的な体験をどう評価するかということも問題である。これはオウムのような新興宗教の問題などと重なる要素が大きいと考えられる。あたかも人格であるとか霊魂のレベルが向上したことの結果のように解釈されることが多いが、たとえばチャクラが開いたとか、次なる高次のステージに進んだなどと説明されたりもするが、そういうのは何というか、宗教的、形而上的なインチキである。仏であるとか天使的な存在者は、先にも述べた通りに本来は人間世界に対して手を入れたくはないものである。手を加えずに、自然のままそのままに放置しておきたいのが本心であるが、時には止むに止まれずに、人間の物質世界に手を差し伸べてしまうということであるのだから、同じ仏縁のある人間であっても、そういう体験のない人間の方が、ある面では清らかであるというか優れているのである。子供を持つ親なら誰でもわかるであろうが、子供が小さな時分は親が子供と一緒に出歩くときは、いつも危険のないように手をつないでいるものであるが、子供が成長して大きくなるにつれていつの日か手をつながなくともよいようになる。人間と仏の関係も同じで、安心して見ていられる人間には遠目に見ているだけで、小さなことで生活に介入したり関与したりはしないであろうが、不可思議な体験をしている間は、人間的にも或いは宗教的な目で見ても未熟であるということであって、そういう神秘体験や神秘主義を絶対視して価値を認めてしまうことは、非常に危険なのだと思われる。そのようなある種の未熟さが、新興宗教では本末転倒にも価値が転倒してしまって、近視眼的な神秘主義思想の下で衆生を導こうとしたり、社会改革の土台になったりするものである。よって霊魂の向上であるとか、超能力の獲得であるとか、前世の霊視であるとか、そういうことによる現世の幸福や宗教的な効果を喧伝するような宗教には近寄らない方がよいのである。なぜ新興宗教がそういう類のことを強調するのかと言えば、既存宗教と差別化して信者を獲得するためには、そういうある種のわかりやすさを利用せざるを得ないという内部事情以外に何もないのであって、宗教的な本質や真理とは何の関係もないものである。
もう一つ強調したいことは、天上の御仏は、仏縁があってこの世で生きることが困難な弱い人間を手助けしようとされるであろうが、優れている人間を選んで、劣っている人間を見放すというものではないということである。これも新興宗教の問題と絡んでくることであるが、教祖が神仏の代理人か生まれ変わりのように絶対的に君臨していて、信者はその教祖を手本として一心不乱に修行したり、信心を深めることで、一段ずつ階段を上るようにステップアップしていくという教えのパターンが多く見られるが、こういう信仰論理に簡単に取り込まれること自体が救われ難い人間のように感じられる。まあその人が何を信じようとその人の自由なのであるが。私の考えで言えば、人間世界の尺度や価値体系で神仏の世界を推し量ろうとすること自体がそもそも間違っているのである。確かに人間世界には修辞学的には神に近いといえるような天才もたくさん存在するであろうが、それでも神仏の目から見れば50歩100歩の違いだと私は思うのである。西洋における一神教の神と仏教の諸仏は多少位置づけは異なるかも知れないが、仏教における諸仏諸尊が人間世界に降り立って凡夫を救おうとしているにせよ、その本体は広大な宇宙空間の中で輝く太陽の如き存在であって、地球上の人間が50歩と100歩の違いで太陽(仏)から近いとか遠いと言い争っても、太陽と地球との距離感から見れば何の隔たりもないものである。それがたとえ1歩と1万歩の違いであっても同様である。人間世界の尺度で人間と神仏との世界との距離感を計って、それが地上世界の支配であるとか、精神の圧迫や霊的な搾取に結びつきやすい現状に私は常日頃から懸念と嫌悪を抱いているものである。