龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

「中身のなさ」についての一考察

蔭口で「あの人は中身がないから」とは、誰もが一度は言ったり耳にしたことのある言い回しであろう。今回は、その「中身」なるものについて考察してみたい。それでは「中身がない」とは、どのような傾向、状態、人柄を指して言う表現であろうか。一般的には、日和見的で付和雷同ばかりしているような人、立場の強い者や有力者の前では媚びへつらってばかりいるのに、弱い立場の者を前にすると、これ見よがしに居丈高になったり、平気で相手を見下したような態度を取るような人物、自慢話や何かを見せびらかすことの優越感、自己満足に絶えず喜びを見出す性格の持ち主、いるであろう、あなたたちの周りにもそういう人間が。世間一般的には、そのようなタイプの人間が、「中身がない」として、陰で馬鹿にされたり、忌み嫌われるものである。それではそこから、さらに踏み込んで考えるに、そのように中身のない人間たちは自分たちのことを一体、どのように自己認識しているのであろうか。内心では自分のことを、中身のない人間だと思っているのかということである。恐らくは、そのようなことはないと考えられるものである。世間一般では、自分のことを謙遜して、「何の取り柄もない人間だから」とか「大して頭が良くないので」などとは、よく使われる表現である。しかし「私は、何の中身もない人間です。」などとは決して言わない。そんなことを言われれば、言われた方もぎょっとすることであろう。慣用的にそういう表現がないということは、そのような「自己認識」が存在しないということを意味しているのであると私は考える。誰もが、たとえ周りから「中身のない人」と思われている人間であっても、当人は自分のことを無前提に「中身がある」と考えているものである。このギャップをどのように解釈すればよいのであろうか。私が思うに、精神が健康な人ならば、完全に中身を喪失して生きているという状態は有り得ない。人間、取り柄がなくとも頭が悪くとも、生きてゆく上で大して支障にはならないが、中身がなければ生きられない。つまり万人が皆、その人なりの、その人のレベルに見合った「中身」と共に生きているのである。よって正確には「中身がない」とは、「中身が薄い」というべきであろう。その時の情勢や相手によって態度や主張をカメレオンの保護色のように変える人間の根本原理とは、ひたすらに「相対性」の中で生きているということであって、不用意に自分を「個別化」させないということである。生物にとって個別化は、危険そのものである。自然界では、周りとの環境の中に埋没せずに目立ってしまうと天敵に狙われやすくなり、生き延びて子孫を残せる可能性が低くなる。そうは言っても人間界では埋没ばかりしていると、上司から取り立てられることも、出世することも出来ない。よってその兼合いやバランスの中で、処世術として中身のない(薄い)人間が生まれてくるのであるが、当人はその処世術に過ぎないものを「信念」や「理想」などと勘違いして自己認識しているケースも非常に多い。自分で自分を美化しなければ、生きていけないのである。しかしある意味においては、人間とは自然界の動植物と同じように「相対性」から離れられない生き物であって、「中身のない(薄い)人間」の出現も一つの必然であると言える。つまりは程度の問題であって、人間、誰しも処世術だけでなく、生活心理としても「隣の家の芝生は青く見える」というような相対的な価値観に包まれて生きているとも言える。だからこそ、より青い芝生に象徴される美しいもの、快適さを人々が追い求めることによって資本主義経済が成り立っているのである。一方で、これを宗教的な見地から考えれば、人間は自分を他者から徹底的に個別化させないことには、神仏との関係性は追求できないものである。神仏との関係性の有り得ないところに、神仏の恵もまた存在しないものである。ところが宗教団体内部においても、神仏との個別の関係性ではなく、お布施の多寡や布教における勧誘などの実績に応じて、地位や序列が決定されたりするそうであるから、人間(大衆)にとって他者との相対的な優劣、価値観は、どこまでも離れられない性のようなものであると言える。極言すれば、社会的な相対性とは「人間らしさ」そのものである。相対性という人間存在の前提条件の中で、いかに自己を人間らしさに背くことなく、また卑しい品性に陥ることのないように「個別化」させていくことが出来るかということが、万人にとっての人生の重要なテーマの一つであると言えよう。そして、そのテーマは個人だけでなく、スケールは異なるが、国家にとっても同じだと思うのである。国家とは人間集団による連綿と続くところの統治機構であるのだから、人間存在のテーマと結びついていて当然である。日本の隣国である韓国は、日本を国際的に批判ばかりしているが、内実的には日本との相対性から脱却し得ているようには見れない。日本を貶めたり、日本に勝つことだけが韓国という国家の中核的なイデオロギーになっているようである。もっと日本への意識を離れて、独立国家としての前向きで、建設的な姿勢を見せればよいものをと思うのだが、これではいつまで経っても、「中身のない国」そのものである。韓国は歴史的に見ても、李氏朝鮮の時代から中国に従属していたり、日本の統治下に入ったりで、戦後の日本の多大な援助による発展の経緯においても、未だ独立国家としての尊厳を確立し得るところにまでは至っていないと考えられるものである。よって短期間に独立国家としての尊厳を確立するための「あがき」の中で、日本を常態的に誹謗、中傷することによって、自国を相対的に浮かび上がらせる姿勢を崩せないのだと考えられるものである。その割には、通貨危機などに際しては日本からの支援を期待する依存体質も色濃く残しているのであるから、日本からすれば非常に厄介な国である。韓国の通貨が暴落したり、韓国経済が崩壊する危険性と常に隣り合わせになっているのは、元を正せば、韓国という国の「中身のなさ」にしか行き着かないものである。所詮は中身のない見かけだけだから、外部からの介入や支援なしには、その見かけを維持し続けることが困難なのである。日本がいかに借金大国であるとは言っても、日本の円や経済との総合的な実力差は歴然としているものである。日本とすれば、韓国のように中身のない国といかに対峙するかということが重大なテーマであり、問題でもある。本来であれば、相手にせずに見過ごしているのが一番の良策なのである。そうすれば、いずれは韓国も、日本との相対性から離れて行かざるを得ないであろう。現在の韓国が何だかんだと言いながら、日本との外交を拒否している姿勢は本質的には歴史問題などあまり関係なく、そういう韓国側の自立意識と自尊心を反映している事情もあるのだろうから、それはそれで日本としても距離を置いた姿勢を取ることが、将来的には両国のためになることなのである。ところがどうもアメリカという国は、そういうアジア的な微妙な心情、背景を理解していないようである。どんどんと日韓の話がこじれてゆく張本人(国)は、アメリカであるとも見れる。また日本にしても、中国はともかく韓国のような中身のない国の批判に振り回されてばかりいて、本当にそれで中身のある国と言えるのであろうか。悲しいことではあるが、そういう現実もまた我々日本人はしっかりと直視しなければならない。中身のある者は、中身のない者に振り回されないものである。日本が韓国のような国とは同列には論じられないにせよ、日本という国の中身がしっかりしていないから、つけ込まれ、振り回されることとなるのである。よって日本もまた独立国家としての中身を再構築してゆく要請に迫られているということだ。憲法改正は必要なのである。アメリカにはそういう日本の事情をよく勘案していただきたいものだ。