龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

新興宗教について思うこと

日々、忙しくて(怠けていて)更新から遠ざかっているが、思うところはたくさんある。さて、何について話そうか。別に何でもいいのだけれど、今回は新興宗教について私見を述べることにする。幸福の科学が、タレント信者の引退騒動について、いろいろと批判されているようだ。一人のタレントが引退しようが、しまいが私にはどうでもよいことだし、何の関心もないが、日本は憲法で信教の自由が認められているので誰が何を信じようとその人の勝手ではあるが、私は率直に言って、教祖が霊言とやらで、教団に対立する人物の守護霊と対話するという形式でその人物を批判したり、本人に代わって守護霊に謝罪させたり、悔悟させるような手法に嫌悪感しか抱けないものである。まあ教祖という存在は、教団に信者を繋ぎ止めるためにいろいろなことを言うものであるから、それはそれでよいというか、ある意味では本道なのかも知れないが、そういう言葉を無条件に、盲目的に信じてしまう信者というものはどうなのだろうか。信仰というものは、私は決して客観性や合理的、理性的な思考と矛盾するものではないと考えるが、教団内部のプロパガンダのような託宣を盲信しているようでは、救われ難いというか、信仰以前の問題のように感じられる。大きなお世話かも知れないが、また幸福の科学だけに言えることではないが、信者がもし何らかの不幸を感じる境遇にあって、そこから自力で脱却できないのであれば、その根本的な原因はそういうことに対して疑いを持ち得ない意識レベルや思考回路にあるように考えられる。宗教を否定するつもりはないが、最終的に信じる者は救われないのである。言い方を変えれば、信じるから救われるというものではないと思う。神仏は教団内部に存在する訳ではないし、信じない者を見捨てたり、罰したりはしない。そこには教団のための信仰か、自分自身のための信仰かの違いが存在する。純粋に自分自身のための信仰であれば、否定もまた必要不可欠な信心の現れなのだ。あらゆる教団や教祖は、仲卸商人のように、神と人の間に立って仲立ちしようとするが、何もそのような媒介を通じてしか神仏を感得してはいけないという取り決めがあるわけではない。全ての人間は教団や教祖の言うことなど無視して、神と直接取引をすればよいのであり、本来全ての人間にそれができるはずなのである。またそれが幸福への最短距離である。教団に多額の金を寄付したからといって、教団内部での地位は向上するであろうが、天に功徳を積むことにはならない。こういうことを言えば全ての宗教団体から敵視されるであろうが、私は宗教というものは全面的に否定はしないまでも人類の進化の妨げになっているところも大きいと考える。救済というよりも霊的な教えが支配や搾取の手段になってしまっている。特に新興宗教においてはその傾向が大であることは言うまでもない。なぜなら教団は社会の中で信者獲得において生き残りの生存競争に晒されているのであり、ある意味では市場の中で商品を売る企業と同じである。既存宗教は、強引な布教活動や勧誘をしなくとも地域社会に深く根付いているので、来るものは拒まず、去る者は追わずという寛容かつ余裕のある姿勢で信者に相対できるであろうが、新興宗教の場合はそういう訳にはいかない。新興宗教側の見方で言えば、既存宗教のように伝統と歴史の上で胡坐をかくような、堕落した活動(確かに日本の仏教に関して見ればその側面は否定できないという以上に大であるが)をしていられないということである。よってある意味では新興宗教は、布教に際して情熱的で、一人一人の信者に対しても熱心であると言える。しかし熱心であり過ぎると、社会的な弊害も生じるのであって、宗教というものの性質上、個人の私生活や内面に深く関与せざるを得ないものである。今回のタレントの引退騒動のように、時には宗教団体が仕事内容に干渉したりマネジメントするようなことは必然的に発生する。しかしそれはその宗教の教義の問題ではなくて、単に新興宗教と信者との関係性、心理的な距離感(緊密性)が、反映されたものに過ぎないのであって、社会学的にどうかということではなく、信者の側にそういうことが客観的に理解できる知性があれば、もっとその宗教団体との付き合い方であるとか、宗教と言うものの本質もわかるであろうし、そういうことの方が盲目的な信心よりも人生においては重要であると私は考えるものであるがいかがであろうか。幸福の科学の教祖が行っている守護霊との対話や霊言についても、そういう理解の上で、それでも尚、私は信じる立場を貫くというのであれば、それはそれで一つの信仰であるであろうが、そのような信仰が内部の論理を超えて、外部化し社会性を持つようになると危険である。たとえば幸福の科学が大学を経営することになると、そういう教えが批判精神を未だ持ち得ていない多くの若者に植え付けられていくことになるであろう。教団内部では正しくても、社会の中にその論理が持ち込まれると軋轢や対立が生じるのは当然である。幸福の科学運営の大学認可が拒否されたのもそういうところに理由があると想像されるが、教祖の霊言が全て正しいのであれば、そもそもそこには普遍的な学問とか真理への追及が介在する余地がないのではないか。教祖の霊言や守護霊との対話が真理の全てでそれに矛盾するものやそぐわないものは否定、無視されるだけのことである。またそのような霊言の論理も際限なく教団の正当性を裏付けることにしかならない。大学の認可を拒否した担当者たちも守護霊レベルでは、その過ちを悔いていたり、当人が地獄に堕ちることを危惧しているということになりかねない。またそのような思考回路を持つ信者が、集団として政治的な力を顕現できるだけの数を有すると、その信者以外の人間は常に脅威を感じなければならないこととなる。実際に幸福の科学は、当選者は今のところ輩出していないようだが、選挙の度に多数の候補者を擁立しているではないか。今後、一人、二人と当選者が出ていくごとに確実に日本の社会は少しずつ変質していくことになるであろう。日本は今、宗教法人法の在り方を再考すべき時ではないのか。