龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

利権と道徳

妻が夫を殺害する事件が起きた時に、新聞社が加害者を擁護するように妻が主張するところのDV被害を書き立てることは、“死人に口なし”であると前回述べたが、正確に社会考察するならば必ずしもその表現は正しくはない。
DVに関しては、痴漢などの破廉恥罪も同様であるが、一旦女性側から訴えられれば、生者にも現実的には口なしである。一方的に女性の主張が妄信され採用される。男性は口なし同然にほとんど何も弁明することが許されない。生者にすら口なしなのだから、死人に口なしの報道でも一切問題がないと報道機関は考えているのだと思われる。一般大衆は常に身の回りの情報によって道徳的に洗脳されているから、道徳的にのみ事の善悪を判断する傾向が極めて高い。
その道徳の質や、道徳と権力の関係性となると一般人はまったくのお手上げ状態になってしまう。しかしそれで本当に良いのであろうか。
最近は少しトーンダウンしているようにも見受けられるが、一時は男女共同参画運動の一環としてのDV摘発の嵐が凄まじく吹き荒れていた。それはあたかも17世紀におけるヨーロッパの魔女狩りか、1950年代のアメリカのレッド・パージ(赤狩り)を思わせるものがあった。各都道府県の市町村役所はDV相談の窓口を設け、ほんの少しでもDVを感じたらすぐに電話連絡するようにとホームページ等で広報活動をなし、マスコミは同調するように国民の洗脳に邁進し続けた。その結果、アメリカ人の10人に1人は宇宙人に誘拐された経験があると信じているのと同じで、日本の女性は催眠術を掛けられたように誰もが深刻なDV被害を受けている状態に気分的に陥ってしまった。現に官僚が作成した統計では、6人に1人の女性がDV被害により殺されかけたか、あるいは生命の危険を感じた経験があると報告していた。新聞もその統計を大々的に報道し、世の中の確かな“気分”を醸成することに成功していた。一般人がそれらの論調に異議の一つでも唱えようものなら、非国民扱いされかねない風潮が立ち込めていた。誤解のないように言っておくが、私は何もDV行為を擁護しているわけではない。私は社会科学的に日本の道徳と権力の関係性を考察しようとしているのである。そこのところをよくご理解いただきたい。
役所が市民の声としてのDV被害実績を積み重ねようとすることには、社会道徳以外に核となるべき“合理的”な理由がある。男女共同参画関係の一部であるDV対策予算を前年に引き続き削減されることなく獲得する上で、どうしても一定数の実績データが必要となるからだ。さすがに嘘をついたりデータを改ざんすることは憚られる。そのためにDV領域を押し広げて、健全な家庭生活には不可避とも言える些少な行為や態度まで針小棒大にDVとして市民に親告してもらう必要があり、そのための法整備や啓蒙活動がこれまで展開されてきたのだ。ここにおいてDVという名の背徳行為は、言わば釣られる魚のようなものである。役所や権力にとって大切なのは何よりも釣果である。それも竿で1匹づつ釣っていたのでは莫大な予算の魚篭が寂しく見えて追いつかないから、小さな池(市民生活)に投網を打ち一網打尽にするようなものだ。それで本来、健全で良心的な家庭が壊れようとお構いなしである。日本の権力と行政は基本的に予算獲得至上主義の原則に則っている。その延長線上に、予算獲得の口実に都合の良い道徳が要求されることが多い。利権と道徳とは無関係のようで実は密接した関係にあるのである。
こういう世の中の仕組み、流れをよく理解しなければ、大衆は騙される一方であると言えよう。具体的にDV被害の真相について検証すれば以下の4パターンに分類されるのではないであろうか。第一は日常的に夫の妻に対する暴力が繰り返されていて、妻には生命の危険性があると言えるが妻には逃げ場所がない。第二は、夫は普段は優しくて温厚であるが、ごくまれに酒を飲んだり機嫌が悪い時に妻に対して暴力を加えることがある。第三は、夫婦生活の中で一、二回だけ大喧嘩をして取っ組み合いの状態になったがどちらかの一方的な暴力行為とは到底、言えないような内容のものであった。第四は、夫の妻に対する暴力行為は皆無であるが、夫婦関係が泥沼の最悪状態であり妻が何らかの理由により嘘をついて夫をDV加害者に仕立て上げようとしている。
さてこの4分類で言えば、本来のDVとは第一か、せいぜい第二までであると言えるがそれでは国から予算が取れない。だから利権につながる政治家やフェミニスト集団、役人などは強引に第四のケースまでを強引にDV認定の範疇に組み入れようとする。しかし本来は国や行政は第一のケースだけを重点的に取り締まるべきであり、第二から第四までは当人たちの私的な問題に過ぎないと言えるはずだ。子供が虐待を受けて死んでしまうのとはまったく異質な問題なのである。むしろ反対に本当に緊急性を要する第一のケースが埋没してしまって見過ごされ、多少の問題はあっても回復の余地が残されている夫婦間の関係性が、つまりは家庭そのものが結果的に官僚や役所の予算のために、あるいはフェミニズムの思想のために生贄として捧げられ破壊されることに現実としてなってしまっている。こういう予算獲得至上主義に随伴する行政の弊害が、妻が夫を殺害した時の新聞報道に顕著に現れているように私には思われる。殺人を犯しているのであるから上記の例で言えば、妻は第四、つまり嘘をついている可能性が極めて高いと見るべきである。しかし新聞社は既存の社会秩序(利権)を守るために殺人者の主張を無条件に受け入れて報道し、大衆もまたその記事内容に接して殺人者に同情の念を向ける。司法はその大衆感情に配慮を示して、妻に執行猶予の温情判決を出すこととなる。このような連鎖の中で、社会の雰囲気において、一般的な大衆女性は夫や恋人からのDV被害を少しでも大げさに訴えることが日本社会の秩序維持につまりは社会貢献をしているかのような錯覚に陥ることとなっても何ら不思議ではない。もちろん私が今、述べているような内容が多くの心優しい女性方に激しく反感を抱かせるであろうことはわかっている。そういう反応は百も二百も承知の上で、敢えて私は述べているのだ。聡明な女性になら理解していただけると思うが、事の本質は決して男女問題ではない。問題は、日本の権力の強さと質なのだ。ご承知の通り、日本という国は外交的には一部の途上国を相手にする以外はほとんど無力であり、一昨年に起きた中国漁船による領海侵犯事件で見られた通り、大国の圧力を受ければいとも簡単に腰砕けとなって法の筋道を厳格に通すことすらままならない。そのくせ中国国内で日本人囚人が麻薬密輸程度の事件で死刑に処せられようとしても内政干渉はできないなどと言って抗議すらしない。経済のグローバル化などと盛んに喧伝し、法人税引き下げの必要性などを政府は強調するが、犯罪もまたいとも簡単に国境を越えるのである。しかし日本の正義は国境から1ミリたりとも外部に向かって行使できるような性質のものではない。それどころか国内に侵入され、恫喝、命令されても反抗の姿勢を示すことすら現実的には難しい。よって日本権力は国内の善良な人間に対してまでも、投網を打つが如く、微罪を広く厳しく取り締まることによって威信を保つ以外には国家として存立できないのだ。DVだけでなく痴漢や駐車禁止の取締りなど名目は異なっても基本的には皆、同じである。それとこれとは別の問題だという声が聞こえてきそうであるが、そんなことはない。全ては結びついているのだ。権力とはその断面における諸相が、互いに結びつき、誤魔化し、隠蔽しながら一つの均衡として我々の日常を形作っている。マスコミも日本権力の一断面である。特に新聞社は旧態依然とした再販制の問題を未だに抱えており、その矛盾が日本の正義と道徳観念に暗い影を落としているように私には感じられる。新聞再販制及び特殊指定の問題については、そう簡単に論じきれるものではないので、機会を改めて深く考察したいと思う。但しこの問題を取り上げれば新聞社の面々は、マフィアの如く態度を豹変させることだけは確かである。それだけ根深い問題が秘められているということだ。
とにかく一度に多くのことは述べきれない。また私にはそれだけの能力もない。勉強しながら少しずつ述べ進めてゆくことにする。