龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

もう馬鹿、馬鹿、馬鹿。

先日の夕刻、元妻から携帯に電話が掛かってきて何かと思えば、困ったように笑っている。こういう時は大抵、何かの頼みごとだ。息子に関することではなさそうなので、取り敢えずは安心して、「どないした。」と聞くと、「また自転車持っていかれてん。これで3回目や。」と笑いながら言う。元妻は駅近くの銀行前に自転車を置いてどこかで妹と会っていたところ、夕方戻ってくると放置自転車として撤去されていたらしい。しかし3回も持っていかれるなよ、と呆れるが私が説教しても仕方ない。人生2度あることは必ず3度あるものだと思いつつ嫌な予感はするが、とにかく黙って聞かざるを得ない。元妻が言うには、保管場所に引き取りに行かなければならないのだが、電動自転車なのでバスで行って帰りにその自転車に乗って帰れば、距離があるので途中で充電が切れてしまう可能性があるとのこと。自転車がないと困るから早く引き取りに行きたいとのこと。翌日はパートの仕事が昼の1時に終わるからそれから時間が空いているとのこと。要するに話しを総合すれば、元妻ははっきりとは言わないのだけれど私に翌日、車で一緒に保管所まで引き取りに連れて行って欲しいと伝えているのだ。元妻は車を持っていない。そんなことを言われても私は仕事である。会社員ではないから比較的、時間は自由になるがそれでも昼の1時に放置自転車を引き取りに行く程、暇ではない。だからそう言って、一旦断って電話を切った。しかし切った後、冷静によく考えればそういう状況では、いずれ私が手伝わなければならないことは目に見えているので、面倒なことは早く片付けてしまいたいという気分に不思議となってくる。いつものパターンだ。結局翌日の1時に元妻の職場に車で迎えに行きそのまま保管場所まで自転車を引き取りに行くことになった。やれやれだ。村上春樹のつまらない小説ではないが、本当に「やれやれ」だ。私は離婚しても尚、アッシー君(死語)である。
まあ、それはよいのであるが、翌日行ってみると保管場所は高速道路の高架下にあった。プレハブの事務所が一つ設置されていた。元妻はその事務所に入って恐らくは引取りの書類にサインをし、撤去費用の2500円を支払っていた。私はその間、何気なく外で当りを見渡し考えたのだが、高架下なので直射日光は当らず夏場は凌ぎ易いであろうし、また雨も掛からない。車の走行音もさほど響いてこない。この場所なら充分、人が住むことも出来るなと思った。中々良い職場なのである。事務所の前では7~8人の男性職員が何をするわけでもなく寛いだ表情で椅子に座っていた。年齢は皆60歳ぐらいなので、恐らくは市役所に勤めていた人が定年後に、ここの職場を与えられたのだと思う。暫くすると元妻が事務所から出てきて、車の保管場所まで車で向かう。結構、広いスペースで放置自転車は1000台位、収容されていたようであった。職員たちがいくらぐらいの給料を貰っているのか知らないが、ざっと計算してみても放置自転車の預かり期間は30日で引き取りに来ない人も大勢いると推測されるので、この職場で8~9人もの職員がいれば採算が合うわけがないのである。職員たちの仕事内容は恐らく、週何回か、決まった地域から撤去されこの保管所に持ち込まれた自転車をトラックから降ろして、所定の位置まで押していくことぐらいであろう。それ以外は特に何もすることがないので、こうして寛いでパイプ椅子に座っているのである。私はその光景を見て、こういう人々を排除することは並大抵のことではないな、と思った。平松市長は橋下知事の“独裁”を批判して、協調的に改革を進めると言う。しかし我々市民(国民)はいい加減に政治家の言葉というものをよく見極める能力を持たなければならない。協調的に改革するとは、既存の秩序を一切、変えませんと言っているのと同じである。協調路線というものは本質的に敵を作らないという宣言だから、敵を作らないで抜本的な改革など出来るわけがないのである。市長が市職員の立場、待遇を考慮するのはある意味において当然のことではある。なぜなら、直属の部下だからだ。知事が府、県職員職員待遇を、国会議員が国家公務員の待遇を最優先するのも同じである。その心情は理解できる。しかしそれでは改革は絶対に出来ない。平松大阪市長について言えば、協調を重視した改革など、所詮は“アナウンサー”の言葉(道徳)に過ぎない。橋下知事は、職員の待遇よりも、つまり敵を作ってまで大阪府民に顔を向けているというその一点において画期的であり、支持率が高いのは当然であるとも言える。また平松市長を自民党が支持するのもある意味において当然である。平松は小利口で、橋下はひたすら馬鹿になろうと努力している。橋下は若さゆえに問題がないとも言えないが、馬鹿になろうとしているただその一点において評価できる。小利口な人間はもうたくさんだ。我々日本人は“馬鹿”を求めている。私も立派な馬鹿になりたい。そう馬鹿、馬鹿、馬鹿だ。馬鹿だけが何かを為し得るのである。小利口な論説と権力など糞食らえだ。何か文句があるのか。あるなら言ってみろ。小利口とは卑しさそのものである。その卑しさが、ザ・日本だ。