龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

国の仕組みと洗脳

働いている女性の中で「男女共同参画」という言葉を聞いて、心がときめいたり胸に響く層の割合は一体どのくらい存在するのであろうか。
たとえばキャリアの高級官僚であれば、心はときめくであろう。小さな子供を抱えた女性弁護士もそうだ。民間企業であれば、大手生命保険会社などの女性管理職で年収1千万円以上稼いでいる人もいるかも知れない。しかし地方に行けば、男性ですら自営業者以外の会社員で年収1千万円を得ている人間は皆無であろう。そもそも地方には仕事そのものがない。精々、地方で「男女共同参画」を強く支持する女性は、生活が安定している教師職くらいであろう。
嘘だと思うのなら、都心部のスーパーでレジを打っているパートの女性主婦にインタビューしてみればよい。男女共同参画政策について、どう思いますか?、と。おそらく誰もが、「はあ、何ですか、それ?」というような、困惑した表情を浮かべるだけであろう。答えようがない。と言ってもメディアのインタビューは必ず恣意的な編集が入るから無意味であるが。会社員である夫の収入だけではやり繰り出来ず、子供の教育費用や家のローン返済に追われて時給900円位でスーパーや飲食店でパート労働している女性にとって、“男女共同参画”ほどナンセンスなスローガンはない。しかし働いている女性の少なくとも9割以上が、そのような生活に追われたパート労働者である。
男女共同参画とはバブル時代の遺物であり、今や、公務員とごく一部のキャリアウーマンのためにあるスローガンに過ぎない。大衆女性の夢や希望、または心の拠り所になる政策では有り得ない。なぜこのような馬鹿げた政策が未だに見直されることもなく温存され続けているのかと言えば、制度の箱さえ残しておけば予算が取れるからである。平成23年度においては男女共同参画関連に合計6兆7千億円もの予算が投じられている。官僚による一極支配の弊害がここに現れている。国家レベルにおける大きな財布を全て中央官僚が握ってしまっているから、一旦名目が出来てしまえば実情に合わなくなってしまっても旧弊を改めることが出来ない。特に男女共同参画のように、洗脳と強く結びついた政策は現実的に国民が問題意識を発することさえ許されないような状況にある。男女共同参画予算の項目を見ていれば分かるが、“意識改革”という言葉が何度となく出てくる。この意識改革なる標語が象徴しているものは、決してこの制度に対する批判を許さないということであり、よって時代の変遷の中で実情に合わなくなっても廃止に向かえない極めて危険な社会主義思想であると言える。こういう歪みとごまかしが官僚による一極支配の構造の中にいくつも含まれている。たとえば、菅首相が何度となく連呼していた“税と社会保障の一体改革”なる造語であるが、その造語は元々財務省の役人が考え付いたものだと思われるが、増税すれば今以上に社会保障が充実すると素直に考える人はよほどお人よしである。歳入は一旦、国庫という大きな財布に入ってしまえばあの世における死後の魂と同じで、混じってしまえば皆同じである。魂に名札が付いているわけではないのと同様に、消費税などの増税分がそのまま社会保障に振り向けられる訳ではないのだ。それは福祉目的税化しても同じことである。現状においても国債に依存しなければ社会保障は賄えないのだから、たとえ増税分がそのまま社会保障にスライドしても社会保障の総額が増える保証はない。寧ろ減額される可能性の方が大きいであろう。こういう国民を騙すトリックを影で司り、政治家を動かしているのが霞ヶ関に巣食う高級官僚なのである。前回にも述べたことであるが、国民が受動的な姿勢で下らないTV番組ばかり見ていると馬鹿になる一方で、それは官僚や政治家の為政者にとって大衆操作のしやすい社会状態であることは間違いないと思われる。私はTVのバラエティやドラマ、アニメ番組なども全てそれぞれの意図で政治に結びついていると思っている。長くなるので具体的には述べないが、述べようと思えば例示することはできる。よってTVは本当はあまり見ないようにするか、意識的に警戒しながら見るぐらいが丁度いいのではないであろうか。
とにかく民主党は、そもそもこういう国の仕組みを変えるために生まれた政権であるということを今一度思い出して欲しいものだ。菅が全てを台無しにしてしまったのだ。菅首相が計らずも証明したことは、脱官僚は国政レベルでは絶対に成し得ないということだけである。脱官僚イコール地方分権である。財源の財布を小さくしてゆくことが、我々国民生活の向上へと道を開くのだ。それがわかるか、どうかだ。我々国民も常に思考力が問われている。