龍のひげ’s blog

子供たちの未来のために日本を変革する

低劣な集約と統合

相変わらず政治が酷い。酷くて稚拙だ。本当は稚拙なものを語りたくはないが、これだけ程度が低いと、無視して生きてゆくことはとても出来ない。
雑誌、週刊現代121日号に民主党仙谷由人氏と自民党石破茂氏の対談が掲載された。どちらもどちらとの印象を免れないが、より低劣な仙谷氏の発言を具体的に分析して、民主党政治の限界を検証することにしよう。仙谷氏の発言だけを部分的に列挙する。
「いま日本の政治は本質的なことが決められずに漂流している。これは国家的危機です。民意が集約されず、政治が国民を統合していく機能が果たせないでいる。」
「ただ、むずかしいのは、民意があまりにも多様化していること。本来、多様な民意を集約し、普遍化して政策にするのが政党の役割ですが、民意も政治と同様に漂流していて、それもたえず分岐しながら漂流を続けているから、集約が非常に困難になっている。」
「いまの時代、何が起きるかわからないから、そういう意味では選挙の可能性も否定できない。けれども、今年は昨年以上に深刻な問題が起きて、解散よりも、連立連合の政治が本当に必要になるのではないか。そのくらい身構えた態勢を要すると思いますね。というのは‘12年は各国のトップリーダーの交代にともなって政治基盤が大きく変わる可能性があり、安全保障においても予断を許さない地域がいくつもある。そうした危機管理の意味でも身構えが必要で、こういうときに端っこの議論で大騒ぎして選挙をするのは避けたほうがいい。」
いかにも政治家らしい物言いではあるが、この発言内容だけで充分に仙谷氏の政治家としての能力は推し量れる。先ず第一のポイントとして“民意の集約”についてであるが、確かに政党として政策を立てる上で民意を集約する作業は不可欠になるであろうが、政治家の仕事とは、それも国政の政権与党であれば尚更のことであるが、根本的に何よりも大切なことは民意を集約して政策を立てることではないはずである。それこそ、むしろ枝葉の問題であって、政治家ではなく役人でもできることではないのか。政治家の本分とは、一つの理念のもとに国の進むべき方向性を指し示し、国民の理解と同意を得ることである。そしてその延長線上で種々の政策を有るべき社会実現のための手段として立案すべきであり、政策そのものが目的ではないはずだ。よって政党は政策云々よりも、国が向かうべき針路と、政治がその針路から逸れないよう根底の理念を死守することが大義であり、またその大義が維持されていてこそ政党の存在価値があると言えるのである。今の民主党はその土台となるべき理念の部分が崩壊しているから漂流しているのであって、国民はその漂流に巻き込まれているだけではないか。その政治の無能と同列に、民意がたえず分岐しながら漂流を続けているから、集約が困難になっているとは何たる詭弁か。それは政治家ではなく役人が述べる感想だ。野田首相もまったく同様であろうが、政治家が政治本来の仕事を放下して役人の領域に首を深く突っ込みすぎているから、必然的に官僚に支配されているだけのことである。野田首相などは一政策に過ぎない消費税増税に政治生命を賭けるほど執念を燃やしている有様で、とてもじゃないが社会の全体像が見えているとは言い難い。もはや財務官僚の単なる家来にまで堕していると見れよう。
第二に、“政治が国民を統合していく機能”という発言についてであるが、仙谷氏は、政治は国民を統合する役割があると考えているようだ。民意が集約されれば、国民は自然と統合されるものであろうか。私は仙谷氏の政治家としての見識を疑うものである。統合とは、広辞苑によれば“二つ以上のものを一つに統べ合せること。”という意味である。集約とは“あつめて、まとめること”であるから集約と統合は次元の異なる話しである。民主政治の基本であるが、集約しても決して統合してはならないものである。また統合し切れるものではないであろう。だからこその政党政治ではないのか。統合するとは政治責任を国民に押し付けようとしているのと同じである。政治家や政党が対立する意見の中で目指すべき社会を明確にし、その到達度と政治手法について最終的に責任を取るという心構えがあれば、“国民を統合”などという言葉は間違っても出て来ないはずだ。この統合の言葉が結局、どこに繋がるかと言えば、最後に示した発言内容である、“解散よりも連立連合の政治が必要”ということになるのであろう。要するにこの対談は、民主党が負けるのがわかっている総選挙を避けて、自民党と連立を組むための布石を打つものでしかないのである。本当に馬鹿げている。このような低劣な政治家の詭弁を見抜き、ほとんどがの有権者が、この程度のごまかしには誘導されないことを全ての政治家にわからせ我々国民が国政のあり方を導いてゆかなければならないと言える。